「あたしはちゃんとできただろうか。」
最近ご主人をなくされた彼女は言った。
言葉のはしばしにご主人の死に対して、自分がしてきたことを悔やんだり、恥じたり、心配したりしている。そしてこれでよかったんだろうかと自問するようにわたしに問う。はたから見ていたら、これ以上できないくらい美しく完璧な伴侶のみとり方に見えた。
ご主人の8年間の自宅での闘病生活に不満ひとつ漏らさず、まわりもふりまわさず、いつも笑顔で過ごしていた彼女。最後の晩の二人だけのやり取りの逸話に、思わず泣いてしまったわたし。人は悲しさで泣くんではない。圧倒的な美しさ、命の荘厳さに感動して泣くのだ。
そんな妻の鏡のような人がいうのだ。あたしはまちがっていなかった?と。
どんな完璧に見えても、どんなに頑張ったとしても、必ず人はこういう。
「これでよかったんだろうか」
私たちは自分を否定する。
この否定する心に、私たちは振り回されている。一見謙虚な振る舞いにみえるところがみそだ。
自分を否定することに関しては筋金入りのプロフェッショナルなやまんばがいう。これは意味がない。意味がないどころか、かなりな被害を及ぼす。
わたしたちは心の中に浮かぶ言葉を分け隔てなく取り入れる。あれもこれもどれもそれも。だけどよーくきいていると、とんでもなく矛盾に満ちている。あれをしなきゃいけないと心が言う。いわれるままにやると、今度はそれをするなと言う。結局混乱させて疲れさせるのが心の声だ。
心にはエゴ的な声と、それとは別な声がある。
「いやだ」という声と「いけない」という声は、心やからだにズシンとかビシッとくるとおもわない?
「いいよ」という声や「たのしいね」という声は、心やからだがホワ~んと上に飛んでいって、空気と一緒にとけ込んでいくようなかんじがしない?
前者は他人と自分を分ける分離の衝動がある。
後者は他人も自分も分け隔てなく、みそクソ一緒くたになる。
私たちの心には、この二種類のものがごちゃ混ぜになって入っている。しかし実際は、前者の声に圧倒的に支配されている。
「人に後ろ指さされないために。」
「あとでなにか言われないために。」
その呪いのような言葉に、自分のほんとうにやりたい衝動をおさえこみ、自ら限界をつくる。
「じゃあ、人に迷惑かけていいのか?あとでなに言われても知らん顔すればいいのか?」
これはエゴの声だ。
白か黒か、正しいかまちがっているか、右か左か。二極しかないかのように言ってくるのがエゴの特徴。エゴの世界は小さい。過去見聞きしたものしか知らない。前例主義。前例にないものは生み出せない。それがエゴさんのお仕事。
心に否定が生まれたら、エゴからの声だと思ってまちがいない。否定することによって、エゴは存続できるのだから。その声に乗っかって、アチャコチャしてくれると、エゴさんはますます喜ぶ。それそれ、ほーれほれ、そのまま行ってくれたらあたしが居続けられる~っ!って。
やまんばはずーっとその声に振り回されてきた。
作品作るあいだ中鳴り響く声。
「だめだめ、そんなんじゃだめ。あ~、もっとひどくなった。さいてー。あんたそれでもイラストレーターなの!?」
だめ押しの言葉にえんぴつを投げ捨て、頭をかきむしる。
しかしだんだんエゴさんの存在に気がつき始める。
やまんばはえんぴつをもつ。声にならない声が心の中で聞こえる。
「だめだめ、ひどい。そんなのだめ。」
無視。
久しぶりに紙を切る。
「あ~、ひどい。へったくそ~。切り口がぐちゃぐちゃじゃないの!」
その声に抵抗もせず、ひたすら無視。
エゴが訴えてくるものすごい量の言葉の嵐を無視し続けながら作品を作った。
今までになかった方向性が見えてきた。
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