やまんば:「おかあさん、『あたしは歩けん』っておもうちゅうがやろ?」
母:「ちがう。あたしは『あたしは歩けるようになる』っておもいゆうがよ」
やまんば:「それって、もともと歩けないっていうおもいが前提にあるから、歩けるようになるっていってんのじゃない?」
母:「ちがうってば。『あたしは歩けるようになる』って、心の中で呪文みたいにおもいゆうがよ」
やまんば:「。。。。。」
やまんば:「じゃあさ。たとえばよ。あたしが『あたしは歩けるようになる』っておもうとおもう?」
母:「?」
やまんば:「あたしが、『あたしは歩ける!絶対歩けるようになる!』ゆうて心の中で言ゆうとおもう?」
母:「。。。いわんとおもうよねえ。。。」
やまんば:「そやろ?フツーに歩いている人が、わざわざ『あたしは歩ける!歩けるようになる!』っていわんよねえ」
母:「う。。ん。。。いわん。。。」
やまんば:「ね?。。。ってことは?おかあさんは、『あたしは歩けない』って元のところで信じているから、『歩けるようになる』っていう言葉が出るんじゃない?」
母:「そ、、、そんなこと思うてない!あたしは絶対歩けんなんて思うてない!」
やまんば:「。。もうえいわ」
これ、先日の母とやまんばの電話での会話。
人は自分の心の中をどこまで見通すことができるのか。
「おかあさん、素直じゃないよ。ホントのところを言いなさい」
なんて言ったところで、肝心の本人がその心のうちに気がついていない。
彼女は歩けなくなるという恐怖を抱えている。その恐怖は何重にもフタをされていて、本人自身がその恐怖を自覚することがない。
私たちの文明は、いや教育は、「怖がってはいけない」「怒ってはいけない」「しっとしてはいけない」「悲しんではいけない」、そして「楽しんではいけない」などと、およそ自分のうちから出てくる感情的なものにフタをしなければいけないような教えを受けてきた。
つまり『感情』は出てきてあたり前なものを、押さえつけてなかったことにする、という不当な扱いを受けてきたのだ。
それが押え切れないところに来て、どんどん溢れ出しているのが、このところの事件や心の病いにあらわれているんではないかとおもう。私たちは心のメカニズムをテキトーにあしらい過ぎている。
物質は目に見えて明らかなので「えらいこっちゃ」と騒げるが、心のほうは、みえないもんだから「な、なんだかへんなよーなきがするが。。。。ま、えいか」ぐらいにほっぽっとかれている。
なので自分自身の心の中を見るという習慣がないのだ。
むかしはモノがこれほどあふれていなくて、心の中を観る作業は自然と行なわれていたんだと思う。しかし現代はモノにあふれ、ひとりひとりに行き渡った歩く情報ツールが心を自分自身には向かわせず、外の何かに釘付けにさせられることで、より自分を見るチャンスが失われている。
だけどいつでも自分の心に帰ることができる。
怖がっちゃいけないという自分で作った壁は、自分でいともかんたんにはずせる。
そしていつでもその自分の心の中を深く深く掘り下げることができる。それが私たちがもつ能力だ。
がんじがらめになっている自分の観念からの解放へとつながっている。
母:「あたし、歩けんっておもいよった。。。」
やまんば:「へ?」
母:「あたしあれから考えた。あたしはほんとは歩けんって思いよったがや。。。って気がついた」
のちの電話での母からの告白だった。
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