「おれ、なんか悪いことしたんだろうか。。。」
父は電話の向こうで言った。
去年、大手術をした。
かなりきわどい手術だったが、順調に回復していた。日々の歩行訓練や運動など真面目過ぎるほどやって、どんどん良くなっていた。悪いことしたどころか、いいことばかりしてきた。それなのに突然訪れた激しい痛み。今は病院で一進一退の状態にいる。
彼の言葉には、バチが当たった、というようなニュアンスがふくまれていた。
私たちの心の中に、何か悪いことが起こるとバチが当たったという解釈がある。それは自分が悪いことをしてしまったがゆえに、神様が自分に罰を与えたのだと信じて疑わない文化だ。
だから心のどこかでつねに自分を戒めている。
だけどそれはバチが当たるからそうしているのか。
それでは恐怖による洗脳と同じだ。
だが神はそんな存在なのだろうか。神は恐怖によって人々を戒める存在なのか。
いやそうではない。
きっとそれはメッセージなのだ。
ケガも病気もいろんな出来事も、神は(もしくは宇宙の秩序は)、
「そっちじゃないよ、こっち、こっち」
って何をかいわんとして与える出来事なんじゃないだろうか。
彼には何度かそんなメッセージが来ていたのかも知れない。でもそれを聞き逃したのか、
「ではとりあえず、動かないようにしましょう」
と、痛みを与えたのかも知れない。
それはバチでもなんでもない。
神は、
「ただじっとしてて。横になって疲れを取ってて。今、私があなたの身体のアンバランスを整えるから。。。」
と、彼の身体の秩序を整えているのだとしたら。。。私たちは何のために動いて必死になって治療するのだろうか。
野生の動物はケガをすると、なにもたべずに、ねて、すごす。
ニンゲンは病気になると、くすりを飲んだり、手術をしたり、あれやこれやとうごきまわる。その結果は、野生動物の治し方よりも優れているのだろうか。
むしろ抗がん剤治療や、くすりの副作用や、精神的な痛みで、もがきくるしんでいるのではないか。あげくにバチが当たったと自分を責め続ける。
もうそんな迷信は捨てようじゃないか。
自分がそこにただいるだけでオッケーと思う文化にしようじゃないか。
必死になって目標を掲げて突き進まないと、ニンゲンとして無意味だなんて思わせる迷信は終わりにしようじゃないか。
2 件のコメント:
確かに大抵の病気は理不尽だよね・・・
きっと、宗教も病気から生まれたのかもしれないね・・・。
病気を理不尽だと思う気持ちから救われるためにつくられた概念なのかもしれませんね。
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