2013年9月30日月曜日

怒りで始まると怒りで終わる



倍返し!は、このヤローっ!って感じで終わった。
まあ、怒りによって始まったドラマだから、やっぱり怒りで終わるわな。

だけど視聴者側としては、それって次あり!???なのよねっ!ってな気分にさせていく。
うまいなあ。ひっかかっちまうではないか。
ひっかかるもなにも、観てるんだから、しっかりワナにはまってるんだがね。


最後の最後に上からのお達しに怒りを覚える主人公であったが、まっ、よーするに、自分に都合の悪い事が起こると、それに激怒してるわけだ。

おとーさんの不幸のために正義を盾に悪と戦ってた(つもり)だったんだけど、最後は自分の都合の悪いものを怒るというところにきちゃったねってなもんだ。
ありがちありがち。

悪を憎んで正義のために戦うってのは、いつのまにか、正義という大義名分に酔って、自分の都合の良いように持っていくということになりかねないという良い例だったなあ。

善と悪は立場によってころっと変わる。Aの側の立場にたてば、それは善だし、また逆側から見れば、それは悪になる。

それをこっちが正しい、いんやそっちが間違っていると言い合って、歴史ははや2000年。
これって「こっちが勝ちー!カンカンカンカンカン!」ってな答えが出るとは思えない。一時の答えは出るが、やがて反発するものがやってくる。

倍返し直樹は、あの性格のままだったら、延々と何かに怒って問題定義をし、ずっと誰かや、何かと戦い続けていくんだろうな。
そこに幸せはあるのだろうか。
力ずくでとれば、いつかはそれは力ずくで倍返しされる。それにまた10倍返しで返すと、今度は100倍返しでやってくる。エンドレスだな。
これはほとんど喜劇だな。

そろそろそんなもんどーでもいいところに行きたいもんだな〜。

2013年9月27日金曜日

そうよ、あたしゃあ、ずるいニンゲンなのよ!



私たちは自分にとってイヤなもんを排除する。
「排除」するということは、自分の中にあったからだ。
自分の中にないものを排除は出来ない。排除するという言葉の中に、すでにそこにあるという意味を含んでいる。
すでにそこにあるから、「排除」したがるのだ。

ということは、人のフリ見て「ああ、あいつのここがイヤだなあ」と思う箇所があるとすれば、それはすでに自分の中にあるといっているようなもんだ。
認めたくない?そりゃそーだろー。認めたくないから排除するんだもん。

だけどやまんばは自分の中にある、やなもんを直視した。知ってはいたんだけど、ながーいこと認めたくなかった。だけど受け止めた。

ああ、そーよ。あたしゃあ、ズルいニンゲンよ。
ずるくて、だらしなくて、なんでも人のせいにして、おそろしがって、逃げまくって、問題を後回しにして、そこいらにうんちをまき散らして、人迷惑で、セコくって、いやらしーにんげんなのだ。

他人を見て、「ああ、あいつのここがやだ」とか思うのも、それが自分にあるからイヤなんだ。自分の中にあるものを、他人のすがたに見て「おお、とりはだがたつ」なんていってる。

要するに自分の中にあるものが、ぜ~~~んぶ表に現れて、「はいっ!あなたはこれよ!」と、目に見せて教えてくれてるのだ。

人は目に見えないからこわいとか、わからないとかいう。
だから目に見せてくれてんだ。

「どーだ。見えたかい?これでわかったあ?」と。

だけど「ああ、みえないふり、きこえないふり」ってやってても、もうどーにもこーにも前に進めなくなっちゃった。

だけど受け止めたら、簡単なことだった。。。。



人は両極の意識を持つ。善もあれば悪も持つ。善だけ拾い上げて、悪を排除して来た。だけど排除された悪は影となって私につきまとう。その影を現象によってみせてもらうんだ。

その二つが自分にはある。
ただそれを意識的に受け取る。
ただそれだけだったのだ。

ずるいニンゲンの自分を、開き直って力ずくで認めるのではなく、ただそこにあるものを、非難もいいわけもせずに受け取ることだった。

それがただあるがままに見るということだった。
その言葉って、よくいわれる言葉じゃないの。なんて平凡な言い方。
ああ、言葉ってなんてぶっきらぼうで、おもいを言い表せないんだろう。


この世の運動ってみんな回転してるじゃん。

台風もDNAも地球も銀河も。対局のものが存在した瞬間、回転という運動が始まるんじゃないだろうか。
善があって悪が即存在するから運動が始まる。
右があって左があるから回転する。
男と女がいるから回転する。古事記じゃイザナギとイザナミが回転して子供が生まれた。
すべてはそこに対局があるから命が生まれるんじゃないだろうか。

だから自分の悪を認めない限り、生命は本当の躍動をしないんじゃないだろうか。

2013年9月25日水曜日

脱法ハーブ撲滅キャンペーン


先日、脱法ハーブの撲滅パンフレットのお仕事をさせてもらった。

かなり若者文化にじわじわ〜っと入り込んで来ているらしい。タバコの自販機の横に、なにげにこの自販機があったり、ネットじゃ、自然だからカラダにやさしーだの、エコだのといって、若者の心をくすぐってくるらしい。

じゃが、




ほんとは、すげーやばいものらしい。

ハーブって言ってるけど、ようするに乾燥させたそこいらの植物に、わけの分らん化学物質を混ぜ込んであって、それがヒトに異常な作用を及ぼすらしい。

それは、


こーんなふうに、おそいかかって、人格障害を起こさせる。
最近のわけの分らん事件もこんなものが後ろにあるんかもしれん。こないだフロリダでヒトの顔食ったヤツもこれをやっていたという噂がある。ヒトをゾンビ化するすごいものだ。

しかも袋一つ一つが同じ一定の結果をだすんではなく、てんでバラバラ。中には、麻薬の100倍の副作用が出るものもあるんだと。
もうほとんどロシアンルーレット状態じゃないか。


これから「脱法」から「違法」にかわるらしい。

くれぐれもこんなもんに手を出さんように。






2013年9月21日土曜日

バチが当たる?



「おれ、なんか悪いことしたんだろうか。。。」
父は電話の向こうで言った。

去年、大手術をした。
かなりきわどい手術だったが、順調に回復していた。日々の歩行訓練や運動など真面目過ぎるほどやって、どんどん良くなっていた。悪いことしたどころか、いいことばかりしてきた。それなのに突然訪れた激しい痛み。今は病院で一進一退の状態にいる。

彼の言葉には、バチが当たった、というようなニュアンスがふくまれていた。

私たちの心の中に、何か悪いことが起こるとバチが当たったという解釈がある。それは自分が悪いことをしてしまったがゆえに、神様が自分に罰を与えたのだと信じて疑わない文化だ。

だから心のどこかでつねに自分を戒めている。

だけどそれはバチが当たるからそうしているのか。
それでは恐怖による洗脳と同じだ。

だが神はそんな存在なのだろうか。神は恐怖によって人々を戒める存在なのか。

いやそうではない。
きっとそれはメッセージなのだ。
ケガも病気もいろんな出来事も、神は(もしくは宇宙の秩序は)、
「そっちじゃないよ、こっち、こっち」
って何をかいわんとして与える出来事なんじゃないだろうか。

彼には何度かそんなメッセージが来ていたのかも知れない。でもそれを聞き逃したのか、
「ではとりあえず、動かないようにしましょう」
と、痛みを与えたのかも知れない。
それはバチでもなんでもない。

神は、
「ただじっとしてて。横になって疲れを取ってて。今、私があなたの身体のアンバランスを整えるから。。。」
と、彼の身体の秩序を整えているのだとしたら。。。私たちは何のために動いて必死になって治療するのだろうか。


野生の動物はケガをすると、なにもたべずに、ねて、すごす。
ニンゲンは病気になると、くすりを飲んだり、手術をしたり、あれやこれやとうごきまわる。その結果は、野生動物の治し方よりも優れているのだろうか。
むしろ抗がん剤治療や、くすりの副作用や、精神的な痛みで、もがきくるしんでいるのではないか。あげくにバチが当たったと自分を責め続ける。


もうそんな迷信は捨てようじゃないか。
自分がそこにただいるだけでオッケーと思う文化にしようじゃないか。
必死になって目標を掲げて突き進まないと、ニンゲンとして無意味だなんて思わせる迷信は終わりにしようじゃないか。



2013年9月20日金曜日

はいっ、降参します



わたしたちは、ずーっと抵抗し続けているんではないか。

起きてきた出来事に、「それはイヤだ」と抵抗し続ける。
それまでそこに普通にあった事など忘れていたくせに、いざそれがなくなると、それじゃイヤだ!と抵抗する。
そしてもう一度あれが欲しい!あれが普通にそこにあってほしい!とほしがるのだ。

するとそこに葛藤が生まれる。
もうないものをあれがあったら、あれがあってくれてたなら、あたしは幸せだったのに。。。。と。
だけどそれがあったときなど、「それがなにか?」となってたわけだ。

つまり、なくなるとほしくなる。

もしくは、「あれはあって普通よ」と、いわゆる『常識』をもちだされると、
「あたしにはそれがない!」と、ない事を葛藤する。

つまり、ないものをほしがる。

つまりつまり、わしらは、ないものねだりなのだ。
問題意識なのだ。
よくいわれる「危機感をもて」なのだ。

それが自我が育つエサ。
自我は存在したがるので、その存在をアピールする。

いったいだれに?
わしらの本体に。

いつも何かに抵抗していないか?いつも何かを否定していないか?
痛みに、哀しみに、状況に。。。

それが自我を活動的にさせる。考える。思考する。
しかしそこから逃れようとする抵抗によって、生み出されるアイディアは、やがて混乱を生む。これがこうだからこうする、という理由がある行動は、矛盾をはらむ。

やまんばはいままでそーやって、抵抗ばっかりしてきた。これがこうだからこうするのが論理的なのだと、いろんなことをやってきた。だけどそれは自分を混乱させるばかりだった。


あるがままとは、抵抗をしない事だ。
起きてきた出来事に、
「それはそのままで、よろしくおねがいします」
と、降参することのようだ。
すると宇宙の秩序は「はいはい」と、勝手にことを進めてくれる。
抵抗をしないとは、なんて楽な事なのだ。

今まで自分でなんとかするもんだ、とおもってきた。
だけど今は、自分でなんとかできるなんておこがましかったなあ~とおもう。

自我が大騒ぎして事態をごちゃごちゃにしてきてたんだ。

ほんとは今まで宇宙さんがなんとかしてくれてたんだ。決して悪いようにはしていなかったんだ。

これまでも、そしてこれからも。

力をぬいて、赤とんぼがたのしく舞い踊る姿を、ただ楽しもうとおもう。

2013年9月15日日曜日

幸せは条件付き?



例えば「病気」になる。
すると「ああ、病気さえなかったら、幸せなのに。。」
とおもう。
そして病気といわれるまえの「健康」だった頃のことを思い出し、がぜん「病気」と闘い始める。

「健康は幸せだ」とおもう。
病気になってはじめて思う健康の幸せ、ありがたさ。(よく聞くセリフ)
だが、その「健康」だったころ、はたして幸せだったのか。

現実は、そんな自分の健康なんて気にもせずに、何か他の「問題ごと」に気がいって、
「ああ、あれがなければ幸せなのに。。」
とか考えていたりするじゃないか。

じゃあしあわせってなんじゃらほい。

どーも世間がいう幸せとは、「今そこにないものを手に入れると得られる快感」のことを言うようだ。

と、いうことは、「今そこにない=不幸せな状態」を、
「そんなのいやだあーーーっ!」
って猛然と戦ってゲットするという、いわば手応えを必要とするもので、
ゲットできた瞬間、
「ああ、か、い、か、ん」
と薬師丸ひろ子ちゃん的に感じるような程度のしあわせ感である。

んで、ゲットできた瞬間、その快感を味わったのち、いつのまにか次のターゲットに意識が向かうぐらいの、つまりいつもここにはない何かを追い求めるだけのしあわせ感なんじゃないだろうか。

だから「健康」であったときは、しあわせをかんじてはいないのだ。健康はふつうにそこにあり、追い求めてゲットするものではなかったからだ。


これがあったら幸せ。
これがなかったら幸せ。
何かが有る無しによってつくられる幸福感。

つまり幸せとは、条件付きなのだ。
それって、なんかおかしいってやまんばはおもいはじめた。
外の状況によって人の幸不幸が決められるなんて。
コマーシャルなんか、そういう価値観を次々にあおって来る。
これがあるのって幸せの条件じゃん~とか、あれ持ってないと不幸だよねーって。



やまんばはこうおもう。
今ここで存在していることが、無条件にうれしくて、たのしい。
それがほんとのしあわせなんじゃないだろうか。

何かを持っているから幸福でも、何かをやっているから幸せでもなく、ただそこにいることが、ただうれしい。
そのとき、そこには「しあわせ」という言葉さえ、おもいつかないかもしれない。

ほんとうは、わたしたちはただよろこびのために、この世に生まれてきているんではないだろうか。

それは、だれかから与えられて感じるよろこびではなく、自らが意識的に創造していくよろこびなんじゃないだろうか。


時代はあまりにも不幸に満ちあふれている。
それは条件付きの幸福感から来ているからじゃないだろうか。

畑の真ん中でトマトにかけていたビニールをはずしながら感じたことだった。

自分の怖れを見る



雨がふっている。
かなりな雨だ。台風が来る。いったいこれからどれくらいふるだろう。

やまんばは水が恐い。
それは台風県高知育ちだからか。
ウチの庭のすぐ下は川になっている。引っ越してきてからと言うもの、大雨が降るたびにこれが氾濫しないかとビビりまくっていた。今のところ氾濫した経験はない。だけどここんところの世界の気象の激しさを考えると、今回はどうなるかわからない。

最近、よく自分の恐怖を見る。
先日の友だちの死は、自分が持っているいろんな怖れをあぶり出してくれた。病気のこと、将来のこと、身内のこと、そして自分自身のいろんなおもいへの葛藤。彼女が抱えていた葛藤は決して彼女だけのものではなく、私たちが誰でも持ちうる葛藤だった。

恐怖は、逃げれば逃げるほど大きくなって迫ってくる。拒絶は、拒絶すればするほど大きくなって迫ってくる。これは過去に何度もやったし、いまでも大きなことから小さなことまで、何でもやっている。だけど逃げてもいっこうに解決はしない。

だから見つめることにした。

自分がどれだけ恐怖を抱えているかを。

大雨がふる。
その音と振動を感じながら、その身体の胸の奥に感じている恐怖をみつめる。
頭の中に走馬灯のように繰り広げられる水に関する恐怖の思い出をみつめながら。

逃げない。
あのときはああだったから逃げたんだ、などと、いいわけをしない。

ただ怖れをいだく自分を、ただ何の判断も、いいとか悪いとか、非難もせずに、ただ感じる。

ただ、じっと感じ続ける。

心が静かになっている。恐怖は膨らんでいかない。過去を振り返って未来を案ずる思考が消えている。
親の問題や、将来の心配や、人生の葛藤が、その時消えている。

全神経を研ぎすませて、大自然の中に、ただ今にある自分がいる。