最近、人の闇をよく見る。
目の前で人の大げんかを見る。
人が裁判にかけられようとしているのを見る。
昨日は、見知らぬ人に罵声を浴びせられる。
一体何が私に起こっているんだろうと考える。
だがダンナはこういう。
「みんな出したいんだよ。出てきてくれてありがとうなのだ」
みんな自分の主張を訴える。
これは間違っているだろう!
こうあるべきだ!
何見てんだよ!
言われた側は、「私の何が間違っているのか!?」
と必死で考える。
でもはたから見ていると、
どっちにも言い分があって、
どっちかが間違っているとは言えない。
裁判でどっちかが勝ったとしても、
負けた方の心が晴れるわけではない。
両方がウィンウィンになんてならない。
勝った方が正義で、負けた方は間違っているというレッテルを貼られるだけだ。
この水平線上での解決は、どちらも幸せにはなれないのだ。
だけど「出したいから出たんだよ」
と考えるとき、そこに罪は見当たらない。
愛を叫びたくて、愛を求める叫びがしたくて、
「バカヤロウ!」と叫んだのだ。
私を罵倒した彼は、ただただ愛を求めて叫んでいた。
黒住宗忠さんのエピソードを思い出した。
彼のところにやってきた男性が、
ことごとく彼を罵倒しまくって帰っていった。
その後ろ姿を見て、黒住さんはニコニコしながら言う。
「ほら、言いたいことを全部言って、あんなに意気揚々と帰っていく。よかったね」
つまり彼の中に罪という意識がないが故に、
どんな言葉を浴びせられても、彼の心に刺さらないのだ。
これはイエスの心に似ている。
イエスが磔になって、槍で刺される。
でもイエスは刺した人にこういうだろう。
「上からの指示で刺したんだね。でも大丈夫。気にすることはないよ。私は平気だから」
その瞬間、刺した彼の心は癒されるだろう。彼の罪は溶けてなくなるだろう。
愛で見るとはそういうことか。
私を罵倒した彼を、
愛で見ることができたのは私の救いだった。
でも「出したいから出すんだよ」
と言うダンナから聞く、人々への愚痴は、
なかなか「出したいから出しているんだな」と言う風に受け止められない。
さっきも一時間ほどそれを聴きながら、
自分の中の罪悪感がざわめくのを感じていた。
ただ聞くと言うことができない。
「いやいや。そうは言っても。。。
結局相手を責めてるんじゃん。
相手が悪いって言ってるじゃん。。。」
「つくしはいつも自分が悪いとか誰かが悪いって考える。
そうじゃないだろ」
私はいつも自分が悪かったんだという視点でものを見てしまう癖がある。
それは罪ありきの考え。
黒住さんも、イエスも、
彼らの心に一切の罪というものが存在していないから、
罪を感じて聞くことはない。
私の中にまだたくさんの罪の意識があることを教えられた。
だが、どうやって見るかを教えてもらった。
こうやって罪は消えていくのだ。
私はそれをするために生きているのだろう。



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