夢で自転車を盗まれる。
目が覚めて、
「あ、夢だった。自転車あるじゃん」とホッとする。
もひとつ見た。
みんなで鍋を囲むための土鍋が足りない。
いくつかかき集めようとあくせくするが、
「あれ?何人来るんだっけ?」って考えたら、二人だけだった。
なんだ。ひとつ土鍋があるからそれで十分じゃんとホッとする。
目が覚めて思う。
私たちはずっと足りないものに心を奪われている。
水分が足りないから補給、
ビタミンCが足りないから補給、
お金、人間関係、健康の欠乏、、、、。
ほとんどのことが不足感から無意識に動いている。
でもそれが満たされることはない。
食べてもすぐ消える。
お金もすぐ消える。
健康も不安定。
人間関係だっていつ壊れるかわからない。
一体私たちは何を求めているのか。
神だ。
足りないのは神だ。
だが神はすでにここにいる。
神に満たされている私たち。
でもその私たちは神を忘れて、モノにばかり目をやっている。
自分の外に現れて見えているモノや、人や、カタチにフォーカスし続けている。
それで一喜一憂し続けている。
ここに答えなど見つからない。
一生安泰などない。
考えてみれば世の中の仕事のほとんどが、欠乏から生み出されている。
医者が足りない、看護師が足りない、
サービスが足りない、
パンだって毎日消えていくから作り続ける。
不足を満たしてくれる職業は大事にされる。
しかし私が作っているものに「足りないから」ってものはない。
器だって、原始時代じゃないんだから、家に有り余るほどある。
絵だって、買わないと死ぬわけでもない。なくって全然ヘーキ。
なんで作り続けてるんだ?
わからん(笑)。
不足からとか、不足していないからとか、
そんなところに立たないことかもしれない。
無意識に不足を補うために行動するのではなく、
その無意識の自分の渇望感を知ることから、
そこからの脱出劇が始まる。
世界は存在していない。
そこでどれだけ溜め込んでも、どれだけ不足していても、
夢から覚めたら何もないのだ。
そこにあるのは神の愛だけなのだ。
愛で満ちている。
美は、その道しるべになるのかもしれない。
一見無駄なものに見えるそれが、
何かわからないものへと私たちを誘う。
楽しい、嬉しい、そんなおもいで作られたものには、
何かが入っている。
不足から買うのではなく、
「うわ!」という出会いと喜びで買うとき、
そこに神がすっと入ってくる。
そして元々ここは神で満たされていたことを思い出す。





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