2025年9月26日金曜日

神で満たされている私たち

 

陶芸展に出した作品「カラスウリ」

夢で自転車を盗まれる。


目が覚めて、

「あ、夢だった。自転車あるじゃん」とホッとする。


もひとつ見た。

みんなで鍋を囲むための土鍋が足りない。

いくつかかき集めようとあくせくするが、

「あれ?何人来るんだっけ?」って考えたら、二人だけだった。

なんだ。ひとつ土鍋があるからそれで十分じゃんとホッとする。



目が覚めて思う。

私たちはずっと足りないものに心を奪われている。


水分が足りないから補給、

ビタミンCが足りないから補給、

お金、人間関係、健康の欠乏、、、、。


ほとんどのことが不足感から無意識に動いている。

でもそれが満たされることはない。

食べてもすぐ消える。

お金もすぐ消える。

健康も不安定。

人間関係だっていつ壊れるかわからない。


「葛の花」



一体私たちは何を求めているのか。



神だ。


足りないのは神だ。

だが神はすでにここにいる。

神に満たされている私たち。


でもその私たちは神を忘れて、モノにばかり目をやっている。

自分の外に現れて見えているモノや、人や、カタチにフォーカスし続けている。

それで一喜一憂し続けている。


ここに答えなど見つからない。

一生安泰などない。




考えてみれば世の中の仕事のほとんどが、欠乏から生み出されている。

医者が足りない、看護師が足りない、

サービスが足りない、

パンだって毎日消えていくから作り続ける。

不足を満たしてくれる職業は大事にされる。


しかし私が作っているものに「足りないから」ってものはない。

器だって、原始時代じゃないんだから、家に有り余るほどある。

絵だって、買わないと死ぬわけでもない。なくって全然ヘーキ。


なんで作り続けてるんだ?

わからん(笑)。


不足からとか、不足していないからとか、

そんなところに立たないことかもしれない。


無意識に不足を補うために行動するのではなく、

その無意識の自分の渇望感を知ることから、

そこからの脱出劇が始まる。


世界は存在していない。

そこでどれだけ溜め込んでも、どれだけ不足していても、

夢から覚めたら何もないのだ。


そこにあるのは神の愛だけなのだ。

愛で満ちている。


美は、その道しるべになるのかもしれない。

一見無駄なものに見えるそれが、

何かわからないものへと私たちを誘う。




楽しい、嬉しい、そんなおもいで作られたものには、

何かが入っている。


不足から買うのではなく、

「うわ!」という出会いと喜びで買うとき、

そこに神がすっと入ってくる。


そして元々ここは神で満たされていたことを思い出す。


「木の葉」










和紙で制作した作品のオンラインショップができました

ペーパーバックの表紙を制作した原画のオンラインショップです





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