明け方の4時から5時にかけてひぐらしが鳴く。
その声で私は目をさます。
開け放した窓から川風がわずかにそよいで心地よい。
圧倒的な大自然に囲まれて、私の心は満ちる。
昨日スポーツクラブでストレッチをしながらふと思う。
「何者かである自分」と「何者でもない自分」
どちらが自由だろうかと。
スポーツクラブにいる私は「何者でもない私」だ。
リタイア後のオヤジ達もおばちゃんもみんな一緒くたになって踊り、泳ぎ、マシーンで鍛える。
でも「何者かである自分」が沸き起こってくるとき、そこに差が生まれる。
先日、絵本を作ってそれを持って人に見せた時、
自分が表現者であるという気分に変わっていた。
「私はこれこれこういう人間です。よろしく」みたいな。
その時の優越感は、奇妙な歪みをその関係にもたらした。
何者かにならなければならないと思ってきた。
そして何者かになってきた。
だがここにきて、何者かであることの不自由さを感じる。
何者かであることは、防衛でもあった。
何者かであるという鎧をつけて人と接しているのだと気づいた時、
少なからずショックがあった。
それが立派なことだと思ってきたし、
そのアイデンティティが自分の立ち位置だと思ってきたし、
それが大人としての距離感やマナーだと思ってきたし、
それが人として向かう姿のように思ってきた。
だがそれが鎧だったとは。。。
何者でもない時、そこに防衛/鎧はない。
何者でもない時、そこに信頼がある。
何者でもない時、誰の話もそのまま聞ける。ジャッジも湧かない。
「暑いねえ~。家になんかにいられないわよ。もうずっとジムにいるわ!」
「ほんとほんと!」
そんなたわいもない会話に、小さな信頼が乗る。
しかし何者かである自分が出てくると、
小さな判断や解釈がニョキッと出てくる。
「いや、ジムでずっといるって、何するんだよ。。。」
何者かである自分は、人との差を見つけ、違いを見つけ、
ジャッジし、攻撃し、心の中で防衛と正当化を繰り返す。
その心は過去を生きている。
何かを達成した自分、肩書きを持った自分。
その自分で今度は未来を考える。
今日は何をしようか、これからの予定は。。。
過去と未来という時間の中で生きる。
何者でもない自分は、今を生きているのかもしれない。
名前もない、性別もない、肩書きもない、
そして個人という感覚さえも曖昧になっている。
そんな感覚でいる時、ダンス仲間のみんなは楽しいし、
陶芸教室もみんないい人ばっかりだ。
そこに肩書きなどいらない。
むしろ持っていたらギクシャクする。
ただただ「わーい!」ってはしゃいでいるだけだ。
みんな一緒!って感じ。
それがなんて楽しいのだ。
何者でもない自分から、
なんでもないものに変わっていくのかもしれない。
その時、人と自分という分離は存在しなくなるのか。
この世界は幻であるということをはっきりわかるのだろうか。
そう言いながら、今日も作品を作っている。
今は毎日散歩に通う蛇滝付近に咲いている「イワタバコ」を制作している。
私は「それ」と出会った時の感動を絵に置き換えている。
言葉では言い表せないから、絵という形にして誰かに伝えているのだろう。
「私は絵描きです」という必要はない。
その感動や喜びが、水に投げ込まれた石の波紋のように広がるさまを
目撃するなんでもないものでありたい。
2 件のコメント:
まさにその通り!
何者でもない。
そこに真の自由がある。
香港さん、ありがとう〜。
だよね!
そこに真の自由があるよね。
先日さ、香港さんが奈良ホテルに行ってる時、
私の友達も奈良ホテルにいたんだよね〜。
シンクロにびっくりした。
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