心の内側を見れば、そこに罪がないことがわかるというが、
私には内側を見ればみるほど罪を見つけてしまう。
ほんの少しのことでもそこに罪を見て、地獄のような苦しみが起こる。
一体これをどう見ればいいのか、どう愛せばいいのか。
苦悩のどん底から助けを求める。
散歩をしているとご近所さんに出会った。
少し会話をする。
そこで心が和む。
また別のご近所さんと出会う。
またそこで心が和む。
そしていつもの原っぱに行き、おひさんを浴びながら感じた。
「これが、、、、奇跡?」
さっきまでの苦痛は消えている。
あの人と会い、会話をし、そしてあの人とも会話をし、、、。
そして今、太陽を浴びながら、ほっこりする。
隣には誰かが落としていった乾いたフン。
それさえも愛おしく、一緒に相席させてもらう喜びがある。
そこには言葉がなかった。
もしもその会話の中で私が自分の罪を見つけていたら、こうはならなかっただろう。
その罪に執着し、どうにかそれを変えようとしたり、消そうとしたりしただろう。
罪には形がある。
その形は言葉で作られる。
形は人と人を分ける。
そこに分離の苦しみがあった。
しかしどういうわけか、さっきの会話で私は一つも罪を見ず、
そして今、フンと一緒にいても、そこに嫌悪は抱けない。
形のないところに愛があった。
言葉のないところに愛があった。
昔私が作った言葉のない絵本3冊。
その視線には愛があった。
きっと私の無意識はそれを知っている。
言葉が消えた時、そこには愛があった。
満ち満ちている愛があった。
これが奇跡?
そしたら、奇跡はそこかしこにある。
あのご近所さん、このご近所さん、この目の前の風景、あの山、このフン。
言葉の向こう側に愛が実在している。
教義の向こう側に愛が実在している。
この形の向こう側に真実がある。
絵:MF新書表紙イラスト
0 件のコメント:
コメントを投稿