先月立て続けに知っている人が4人亡くなった。
亡くなった人は、きっとこの世界から解き放たれて幸せなんだろうなと思ってはいたものの、そんなふうに勝手に考えてもいいんだろうかとの葛藤もあった。
昨日奇跡のコースを教えるコオさんのお話会に参加。コオさんはいつもお話会の前に聖霊からメッセージをもらうらしい。それをその度みんなに話してくれる。
昨日の朝、コオさんはメッセージをもらった。それは亡くなった人々や死の淵にいる人さえも、最高に幸せな状態にいる。だからみんな心配しないで!それをみんなに伝えて!というものだった。
あまりのタイミングにびっくりした。
ああ、やっぱりそうなのだ。最近亡くなったあの方はお腰が曲がっていたけれど、今はシャキーンとまっすぐになって若かりし頃の精悍なお顔で私のすぐそばにいる。きっとニコニコと笑いながら私のことを温かく見守ってくれているにちがいない。
それは単なる妄想だといえばそうなのかもしれない。
しかしそう思うことのどこが悪いのだろう。
例えば亡くなった人が死んだことを恨めしく思ったり悲しんだりしているなどと思うことで、何の得があるのか。それは私の心にある罪悪感を刺激して、さらに罪悪感を高めていくという自分を痛めつけるだけの残酷なゲームをしていることに気がついてくる。
そうではなく、幸せなのだと思う時、私の心はウキウキする。その思いは亡くなった人をすぐ近くに呼び寄せ、自分のことを思ってくれていることに喜び、また自分も幸せだよと伝えてくれている。それを私は無意識に感じてさらに幸せになるのだ。喜びは広がり、周りにも伝染する。
これがリアルというものだ。これが実在するものだ。
恐れ、苦悩、悲しみ、罪悪感、、こういうものはすべて幻想だ。
しかしそれは魅力的でもある。一旦その中に入り込むと物語が生まれる。あれはどうすればいいのだろう、そうならないためには、と、どんどん入り込んでいってしまう。この心の方向が、存在しないものの中にいつまでも居続けさせる。
亡くなった人々は、今最高に幸せな状態にいる。
私はその考えを選ぶ。
その考えは私の暗い部分にも光を照らす。すべての闇を光に変える。
夜、窓を開けて真っ暗な山の稜線を見る。
そのすぐ上に光る一つの星を見るだけで、喜びが膨らみ、嬉しさで眠れなくなった。
絵:「江戸の名門」
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