以前に「人は他人の言葉は疑うが、自分の心の中に出てきた言葉は鵜呑みにする」と書いたと思う。
そんなことってない?
自分に浮かんだ言葉って、そのまま素直に聞いて、そーだ、そーだ、あいつはここがいけないんだ、とか、そーだそーだ、やっぱし、そのとおりにしよう、とかおもったりしない?
やまんばはその自分の中の声を疑いはじめたんだ。
それって、どおよ?と。
心の声は、二つあるようだ。
ひとつは大きな声。もうひとつは、蚊のささやくよーな声。
前者はいつもわたしの中で訴えかけてくる。
「これってどおよ。おかしいとおもわない?だってそうでしょ。理屈に合ってないわよ。だいたいあんたはねえ。。」とか、
「ほーら、いったとおりでしょ。やっぱりあいつはいつもそうなのよ」とか、
「寒いから布団からでちゃダメ!」とか、
なだめたり、すかしたり、早く早くとせかしたり、どきどきおろおろさせたり、とかく大音響で訴えかける。
このての声、止めようとしても止まらないのは、一度でも座禅してみればわかる。
心の中で聞こえてくる声のほとんどはこれ。
よーく聞いてると、すべてに否定が入っている。
他人の批判、社会の批判、自分の批判、できないこと、やれないこと、まちがっていること、だめなこと、いやなこと、心配なこと、腹が立つこと、。。。。
この言葉に素直に従ったら、たいていイライラする。イライラするからなんとか落ち着かせようと、あの手この手を使ってごまかす。テレビみたり、スマホみたり、飲んだり、騒いだり、仕事に没頭したり、畑耕したり。でも耕しているあいだも、仕事しているあいだも、ずっとこの声にふりまわされている。
これが自我の声のようだ。
この声に方向性はないし、破壊的だ。
少なくとも、やまんばの人生において、この声に創造的なものはなかった。いつもどこかで聞いたことのある常識的なことを言って、やまんばを小さく矮小な存在に持っていくのが目的のようだ。
ネットやテレビやコマーシャルは、訴えかけてくる。
これがだめです。あれもだめです。そんなことしたらもってのほかです。ちいさなことからこつこつと。少しでも助けになるように。あなたは小さな存在です。その小さな存在はもっと小さくならないとダメです。なぜなら人に迷惑をかけるからです。
これ、心の中の自我の訴えそのものではないか。
禅寺が心の雑音を消せと座禅をさせるのは、その声に創造性がないことを知っているからではないだろうか。
先日、エレベーターを待っている女の子二人が、待っているあいだスマホをしていたのをみる。電車に乗った子供連れのおかあさんも、子供そっちのけでスマホをしていた。心はじっとしていない。いつも何かに向けて、発信したり受信したり、反応したりしていないといられない。
これはどこからくる?心が訴えてくるんじゃない?
返信しないときらわれるからとか、子育てはこれでいいんだろうか、とか。
そこに答えはないとやまんばは確信した。
だからその声をほっぽらかすことにした。
自我は訴えてくる。
「ほら、なにぼーっとしているの。やらなきゃ」
「。。。」
「ほらほら、なにしてんのよ!仕事しなきゃ!」
「。。。。」
「なっ、、なにしてんのよ!確定申告しなきゃ!」
「。。。。」
自我の声に乗らない。
ただ心の大音響を聞いているだけ。聞いている間に冷静にパターンを見つけることができる。クセを知る。その分析もまたおもしろい。
滝のようにふりそそぐ自我の声をあびながら、静かな自分を見つける。まるで、滝の後ろに空間を見つけるように。
そこにとどまると、一瞬のひらめきがおとずれる。
「あ。。。」
創造的なアイディアは静けさの中にある。
その一瞬の蚊のささやくような声は、今まで考えもつかなかったものを教えてくれる。それは目の前に展開する世界の後ろにある、とてつもなく無限の広がりの一部なのだ。
3 件のコメント:
ジガジガは兎も角、子育てにスマホはいらんです。
スマホは大人に与えられたおもちゃで、とられちゃうと子どもみたいに、大泣きしちゃうかも(笑)。
親も子供が多いから。
って俺も????
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