2021年7月15日木曜日

こうである必要はない


明け方、大雨が降っていた。

目の前の川が氾濫するのではないかと、いつもなら怯える。

だけど先日の言葉があった。


「あなたが不安である時、不安感は自我の気まぐれから生じると認識し、

こうである必要はないと知りなさい」



ただ自我が、おそれを吹聴しているだけだ。

その言葉には何の力もない。


だけど心には力がある。


それは神の子の機能、創造する機能の一部が、

作出という形で表される。

だから自我によって吹聴された恐れを心の作出能力が作り出す。

そういう仕組みになっていると、明け方に教わった。


だから恐れは本当は機能しない。

だけどそれを受け入れた心がそれを生み出し、表してくる。

だから恐れたことは正しいと思わせていたのだ。


心と形が連動するのはそこだ。


だから心を変えていく。

恐れを自我の戯れだと気づき、関わらない。

恐れを許していく。


こうである(恐れがある)必要はない。



安心の中で再び眠りに落ちた。

目がさめると、雨は上がっていた。





絵:雨上がりの庭園

2021年7月13日火曜日

自分が自分を怖がらせているだけやん。

 



「なんやこれ。

自分が自分を怖がらせているだけやん!」

って気がついた時、肩の力が抜けた。


たったそれだけのこと?

たったそれだけのことのために、どれだけ力使ってきたことか。

どれだけ本読みあさって探求してきたことか。。。!





「こういったら、どう言われるだろう?」

「これをお願いしたら、なんて反応されるだろう?」


そういう思いが、私を怯えさせてきた。

特にうるさがれたら、迷惑がられたらどうしよう?という思いが強かった。


そう思いながらも、勇気を出して言うと、やっぱり思った通りの反応が返ってきた。

時には思った通りの反応ではなかったが、それでもたいがい思った通り。

なもんだから、

「ほーらやっぱり!だから言わんこっちゃない!」

そういって、自分をたしなめたものだった。



そのパターンの中で半世紀以上生きてきたが、

どうにも苦しすぎちゃって、どんな本読んでも無駄で、

奇跡講座/コースに行き着いて、その中の言葉に後押しされた。


「こうである必要はない」


え?え?なんだって?


「あなたが不安であるとき、不安感は自我の気まぐれから生じると認識し、

こうである必要はないと知りなさい」


つまり自我が持ち出してくる不安感や恐怖感は、罪悪感を感じさせるためであるってこと。

「お前にゃ、罪があるぞ~。その罪を忘れるなよ~」と。

しかし罪悪感は自我のみが誘ってくる言葉で、あなたとは関係がない。あなたは罪など犯してもおらぬ。だから自我の声によって、自分を怖がらせる必要はないと。


その力は私自身が持っている。

怖がらせるのも、怖がらせないのも。




だからやってみた。

何かを言おうとしたり、何かを人にお願いしようとした時、

「どう反応されるだろう?」の思いをストップしてみた。


すると、、、。

なんも起こらない。

いつもはこう返ってくるだろうな、という反応が返ってこない。

ことはすんなり進む。


あれ?どゆこと?


「あなたは心の力を知らなさすぎる。

あなたは自分の思考を野放図にしている。

それが一体どういうことか、考えたことがあるか」


「恐れはあなたが作り出している」と。




今、家のトイレの工事を頼んでいる。

40年近く経つこの家は、今の構造ではない。蓋を開けてみないとどういう仕組みになっているか見えない。じっさい床をはぐってみると、いろんな問題が見つかった。


以前の私だと、いちいちの問題にあくせくして未来を予測して憂いてみたものだった。

それが「そうですか。ではお願いします」で終わり。


判断や解釈をやめることは、自分の中で長引かせないことであり、

それを問題として存在させないことでもあるのだ。


自分が何かしようとした時、どう反応されるか?というのは判断。

その判断をやめて、出来事をそのまま受け入れる。

するとことは粛々と進んで、静かに終わっていく。



いつものように判断して、反応を確かめているその間、心はとても疲弊する。

ああだったらどうしよう、こうだったらどうしようと。


それは単に選択の問題だった。


お化け屋敷に入って遊びたいか、

広い草原で友と戯れながら遊びたいか。


後者は心を無限大に拡張する。






絵:お兄ちゃんと釣り



2021年7月5日月曜日

誰も嫌な思いをする人がいない

 



「こっちが『いいよ!』って思って、

『よし。聴くぞ!』って心を開いて聴くと、

お客さんの顔が一瞬変わったんだ。

それまで眉間にしわ寄せてた顔してたのがゆるんで、、、」


と、友人はとても楽しそうに話してくれた。



仕事柄いろんなお客さんが訪れる彼女が働くお店。癖持ちのお客さんばかり。

彼女はそれまで肩こりと頭痛に悩まされてきた。

それが最近、彼女の中で何かが変化してきて、体が軽くなってきたようだ。


「なんだ、こんなことだったのかって思う。

それまで何怖がってたんだろうって」



あるお客さんから難しい問題を持ちかけられた。

彼女はあらゆる想定を正直に話し対応した。

その結果うまくことが運び、

感激した客さんから、可愛いプレゼントがやってきた。

その素朴さに、そこにいるみんなが幸せになっていく。



「正直であることがどれだけ自分を解放することか。。

なんで今まで言えなかったんだろうって。。。


だーれも嫌な思いをする人が一人もいないの!

みんな楽しくて、みんな幸せになっていく!」



彼女は真理に触れていた。




私たちは本来喜びで満ちている。


なのにいつの間にか、
「苦しみがあたりまえで、たまにちょこっと喜びがあるだけ。

それが人生ってもんだ。」

と、教わってきたし、そういうもんだと体験して確信をする。

「ほーら。やっぱりね」と。


でもそれも限界を迎える。

にっちもさっちもいかないこの苦しさから逃れられる方法はないのか。


それが単に心の方向を変えるだけなのだと知る瞬間、

この世界の見えかたが変わってくる。



それまで彼女はそのお客さんに「この人はめんどくさい人」と思って、心を閉じて対応していた。

するとそのお客さんも同じように心を閉じたまま、疑いのまなこで反応する。

お客が帰った後、彼女はその人に対して、いろいろ考えてしまっていた。


「それがね。今回あとで全然考えないの。

いつもはぐるぐる考えてたのに。軽いの。

さあ~っと流れていって、はい、おしまい!」


嬉しそうで楽しそうで、魅力的な彼女の顔はますます輝いて見えた。





この世界は鏡だと言われる。

本当にそうだと知るのは、それを体験してからだろう。


なんのことはない。こっち側の問題だったのだと気がついた時、心は解放される。



私たちには二つの考え方がある。

一つは自我からの考え。

もう一つは聖霊からの考え。


心をつぶさに見ていくと、私たちの中にいろんな思い込みがあることに気づく。


一つの出来事を見て、自我はこうささやく。


「ほーら。やっぱりあいつはいつもの態度だ。

警戒してろよ。心を閉ざしてろよ。

人はお前を攻撃する。この世界はそういう恐ろしいものだ」



一方聖霊は、


「あなたには、こういう思い込みを持っています。

それを持つことによって、苦しんでいます。

目の前の兄弟もまた、あなたと同じような苦しみを持っています。

あなたはこの思い込みを手放す気になりますか?

それはまた兄弟をも解放することになります」



自我の声は大きいが聖霊の声はかすか。

それでもいつも私たちはこの二者から、どちらを選択するかを聞かれている。


自我は恐れを選択せよと教え、

聖霊は愛を選択しないかい?とうながしてくる。


あの時彼女は愛を選択した。

心を開いてお客さんに応えようとした。


彼女は見えない大きな一歩を踏み出していた。




絵:ミツバチと親子



2021年7月2日金曜日

裁かなくなった時

 


人を裁かなくなった時、自分を裁かなくなった。

自分を裁かなくなった時、楽になった。



目の前の人を裁かなくなった時、

その人が自分を裁いていないのが分かる。


互いが自由で、ありのままになった。



裁く気持ちがあった時、心はずっとそのことに囚われていた。


それは裁いた自分をどこか後ろめたく、つまり罪悪感を感じていて、

その後ろめたさが居心地が悪いので、裁いた理由を探して、

自分を正当化しようとしていたのだ。


そうやってずっと心はそれに囚われて、関わっていた。


だが裁くことがいかに苦しみを生み、その苦しみを取り除こうとして、

かえって底なし沼に入り込むことに気づいた時、

それはただ、シンプルにやめていくことであると知った。


裁くことをやめたら、後ろめたさも罪悪感もない。

裁かないから、誰にも裁かれない。


自然と心の中の恐れが減っていった。




絵:紫陽花と妖精

2021年6月30日水曜日

自由と不自由

 



「対等」という言葉の意味を知り始めて、自分がいかに人間関係の中で、恐れの中にいるのかを知ることになった。


人の上に、肩書きや階級のようなものをかぶせ、その目でその人を見る。

お役人やお医者さんやアートディレクターという肩書きに、体が一瞬ひるむ自分を見た。


警察官にはそれほどでもない。父が警官だったからだ。単に慣れているだけ。どっちかというと、食ってかかりたい(笑)。


だがこれも同じ穴のムジナ。

どちらかに力があって、それを奪うか奪われるかという戦いになる。自分が上に立とうとするか、下に立とうとするかで、全く対等ではない。




肩書きにひるみ、自分を下に置く瞬間、みょうに居心地が悪くなる。

それは相手に力を与えたからだ。


相手に力を与えるということは、自分には力がないと信じたことになる。そうすると自由を奪われるような、なんとも言えない嫌な気分になる。


今度は逆に「自分の方が有利だ。上だ。。。」と思わせる状況や人たちがいるとする。

すると途端に自分には力があって、こいつらをどうにかしてやろう、という気分になる。



つまり力がこちら側にあると思った瞬間、こちら側に自由があり、この目の前の人を自分がコントロールする力があると信じているのだ。


だがその状況はいつでもころっと反転する。コントロールしているところに自分より上の人間がやってくると、途端に自分を下にする。「あっ、どーもすいません。。。」と下手に出る。


つまり「力」は一つしかなく、常にどっちかがもつことになる。

これが上下の関係。上に立つものは下のものをコントロールし、下になるこのはコントロールされる。

不自由と自由は、どっちが力を持つかにかかっているのだ。


不自由はいつでも転がっている。言い換えれば、いつでも不自由になれるということだ。

ここにはまったく対等性はない。そしてそこにある自由は本当の自由でもない。


だが肩書きが上の方に見える人も、同じ人間。家ではおかーちゃんの尻に敷かれているかもしれない。

娘に「きもっ!」とか「ウザイ」とか言われて、ガン無視されているかもしれない(もう古い言葉?)




だから一瞬肩書きにひるんだ自分を許し、対等であることを意識する。

無意識に自分を下に置こうとしている自分に気がつき、やめる。

もちろん上にも置かない。まったく同じ立ち位置に立つことで、途端に自由になれる。


そのことを教えてくれたのは、うちの町会長だった。

会長という役柄上、無意識に自分を高みに置こうとするものだ。ところが彼は自分を上に置かない。もちろん下にも置かない。常に対等な位置にいる。だから私も自然と同じところに立つことになった。対等だから、言いたいことはずけずけいう。それを許してくれる人だった。



またある人は、自分を常に上に置こうとしていた。彼の虚勢は恐れから来ていた。

よく観察していると、自分は力がないかもしれないという密かな恐れがあり、それを振り払うように大きく出る。一見力があるようにみえるが、その心はとても繊細だった。

だから彼といると自然と私は自分を下においてしまい、常に話を聴く側に自分を立たせていた。それがなんとも不自由で心地悪かった。


だがそれは私がその位置に自分を置いたのだ。

下にいた方が無難だという防衛本能からだった。




どちらかが、上にも下にも立たずにいると、相手もどちらにも立てなくなる。

その瞬間、力関係というものが消え失せて、お互いが自由な関係でいられる。


それが本当の対等と言うものなのだろう。






絵:新書表紙イラスト/戦国名合戦:武田信玄VS上杉謙信




2021年6月21日月曜日

これ、やばい。。。


 

ずっとクライアントの言葉にビクビクしてた。

「どう言われるんだろう」

「どんな反応が返ってくるんだろう?」


仕事が来ると、一瞬喜び、安堵し、

そして次に仕事へのプレッシャーがやってくる。

「うまく描かないと、仕事がポシャる」


ラフを上げるのに、四苦八苦。

ものすごいプレッシャーに押しつぶされそうになる。

プレッシャーは前からあったが、これほどではなかった。


ついに発狂寸前にまでなる。

猛烈な自己否定と未来への強烈な恐れで耐えられなくなった。

散歩の途中、電車がやってくる踏切に飛び込もうとする。

意志力で止めた。



これ、やばい。。。


心を見始めて三年が立つ。いつも自分の思考や感情をつぶさに観察している。

今では微細な心の変化にも気がつくようになった。

隠してきた恐れがどんどんあらわになってくる。

そうすると、感情も極端に感じるようになっていた。


しかし今回のこの出来事。ここまでひっぱくした状態になった。下手したら死ぬ。

自分がどれだけクライアントに怯えているのか、今、本当に見なければいけない時だった。





夜、静かになったとき、自分の心と対面する。


一体どんな信念が私の中にあり、それがこの恐れを作り出しているのか、聖霊とともに見よう。


お金。。。


最初にこの言葉が浮かんだ。


そうだ、私はクライアントにお金をもらって仕事をしている。

私の中に、お金をくれる人、お金をもらう人、という構図が見えた。


すると私はお金をくれる人が上、もらう人が下という上下をつけていることに気がつく。


豊かなお金を持っている王様が、「働け!」と言って、金銭をばらまく。

そこに隷属する私が重労働をしているシーンが。。。


ちょっと待って。

私は奴隷なのか!?

クライアントは王様で私は奴隷なのか!?


こんな信念が自分の中にあったことに驚いた。

そりゃあ必死になるだろう。奴隷は王様に必死でしがみつかないと、生きていけないのだから。




そしてそのなんとも言えない重苦しい気分、心が押しつぶされそうになる思いを味わいながら、

これを聖霊とともに見たい、聖霊ならどう見るのですか?と問うてみた。


対等。。。。


「対等。。。。?」


確かに私は、クライアントが上で、私が下と考えている。対等ではない。

では対等ってどういう意味なのだろう?


愛。。。


「愛。。ですか?」


そうか。私は本の表紙の絵を描くという、愛を表現している。

愛で描かないと、その本の魅力は伝えられない。


でもお金をもらうということは上下の関係で。。。

と思った時、

「お金もひょっとしたら愛の表現なのではないか?」と気づく。


私が愛をもって絵を描く。

それにクライアントは「ありがとう」という感謝の気持ちを伝える。

だけど気持ちだけじゃまだ表現しきれないなあと、お金という形を表現しているのだ。


私が愛でもって絵を描く。

クライアントは愛をお金で現す。


二人はまったく対等だ!

どっちも愛の交流をしているんだ。。!


そう気がついた時、私はとてつもない自由を感じた。


上下の関係を感じていた時、何かコントロールされるような感覚だった。

上にいるものが、下にいるものをコントロールし、

下にいるものはコントロールされる気分になる。


だから苦しかったんだ。。。!


私たちはお金を払う側も、もらう側もまったく対等だった。




「お客様は神様です」

という言葉は、お金を払ってくれる人に敬意を払うものであるが、


無意識に払ってくれる人の方が上。。。。と思ってしまう傾向がないだろうか。

それが「神様」という言葉に現れている。

神様だから邪険にはできないと。。。自分は平民だから下だと。。。

自分で自分を下にしていないだろうか。


だけどお金を払うには払うなりの、価値があるってことだ。


「この愛の表現に、私はお金という愛の表現でもって、感謝の意を表します!」

って言ってるのだもの、それはまさに互いが対等な関係だ。

だから本当は「お客様も私たちも神様です」なんだろうな。


この夜の気づきは、私に大きな考え方の変化をもたらしてくれた。


私の中に自由な心が芽生えた。

クライアントは私の愛の表現を待っている!と。

ワクワクすることじゃない?私から出てくる愛を待ってくれているんだもの。


クライアントからもらったありがたい仕事に、私は嬉々としてラフを出した。



3点のラフを提出した数日後、

あの気づきの後の、愛を込めたラフのアイディアが採用された。