2014年12月30日火曜日

自分で作るお正月



お正月は究極の日本人文化が集約されている。
そしてまた、日本人の固定観念の集大成といっても過言ではない(おおげさだな)。

お正月は神様を家にむかえるために、きれいでなければいけない、うつくしくなければいけない、掃除しなければいけない、飾り物をしなければいけない、おせち料理はこれこれこーゆー物を入れておかねばならない、云々。

いいかえれば、もしそれをおこたると、その一年ろくな年にならないという法則(オドシ)が隠れている。
だから人々はこのクソ寒い中を掃除し、買い物に走り、大騒ぎで新年に向けてフンソーする。

このやまんばもごたぶんにもれず、そのオドシにのっかって、おととしクソ寒い中を風呂掃除をしてぎっくり腰になった。
もうそのオドシには乗らないのだ。


ことのはじまりは「こーやったら、たのしいから!」だったんじゃないか。
たのしかったもんだから、「去年のあれ、またやろう!」ってことになった。

日本人は工夫が大好きだから、
「じゃあこれは?」
「うん、いいね!」
と、次々にいろんな物を考案し、ついにダジャレもどきの料理(マメマメしくとか、よろ昆布とか、おふざけもここまでくれば、たいしたもんである)が出現し、それが膨大な量になってえんえんと続いてしまった。

いつのまにかそのダジャレが「伝統」などとゆー、おもくるしーもんになり、形ばかりを重んじるよーになってくる。

するとそうなってないと、「いいお正月がむかえられない=ろくな年にならない」法則を生む。
それ、勝手にシンドバッドでね?

どこのだれがお正月が
「きれい=いい年」
「きたない=悪い年」
と決めたのか。神様が決めたのか?宇宙の法則か?

ではどこからどこまでが「きれい」で、
どこからどこまでが「きたない」のか。

これだって、線引きしようがないではないか。
宇宙の法則はなんてむずかしーのだ!

とかなんとか。

よーするに、自分で自分の首絞めてんだな、とやまんばは考える。

もとの「たのしいから!」に戻せばいーだけの話だ。
神様だって、苦しんで自分のために準備されるよりは、おもしろがってやっている人のおうちにやってくるほーが、うれしいにきまっている。

自分で楽しんで、自分でオリジナルな伝統をつくっちゃえばいーのだ。



んじゃあ、やまんばのお正月の準備は?
たとえば風呂掃除。
11月頃からすこしずーつ、あそこのかべ、ここの洗面台、って、お風呂に入りながら洗ってた。
ひとかべつづだから、気が楽。化学薬品使わないので、はだかでできる。お湯だけでたいてい落とせる。これは石けんなし生活になってからかもしれない。かべのヨゴレは、石けん垢じゃねえか?

あとの掃除は、気が向いたら。やりたいっておもうときにやる。できなかったら、それでよし。自分の直感に従う。したがわなくてもそれでよし。
料理ももちろん、きぶん。作りたいなら作るし、作りたくないなら作らない。

「やらなきゃ」をもうやめにしたら、下から少しずつ小さな「なんか、やりたいな~」がわいてくる。
それが本来の衝動なのではないだろうか。

「ねばならない」に隠れて見えない、ほんとの自分の気持ちを見つけていこう。




2014年12月27日土曜日

なにかしないと価値がない?



私たちの葛藤のほとんどは、自分への無価値観から来ているんではないか。

私たちは、ただそこにいることを許されていない。
ただそこになんにもしないでいるということは、無価値であると。
何もしないことは、「あなたには価値がない」といわれていることといっしょだ。

仕事があるということは、その人に価値があるということだ。
仕事がないということは、その人に価値がないということだ。
クライアントにクレームをもらうということは、能力がないということだ。
能力がないということは、その人に価値がないということだ。
お金がないということは、その人に価値がないということのことだ。
成績が上がらないということは、その人には価値がないこということだ。
子どもができないということは、その人に価値がないということだ。

なんという暴力的な価値判断なのだ!!!
私たちはこんな価値基準で人や自分を測っているのだ。
それも意識にものぼらないほど瞬時にジャッジして、おびえ、いかり、かなしむ。


ぼーっとしていると、はっと我にかえって、
「いけない。なにかしなければ」
と、なにかすることを探す。
そして一日の終わりに、
「あ~。きょうはこれこれができた。私には価値がある」
と、ひそかに自分をほめる。

すると、何もできなかった日は、
「ああ、今日は何もできなかった。そんな私には価値がない」
と自分をしかったり、自己嫌悪したり、あせったり、もっともっとやらなきゃと、自分に切迫感をあたえつづけるのだ。

その根底に「なにかしないと価値がない」がネッコロがっている。


ある小学生の話。
学校で先生に将来何になりたいですか?と聞かれ、きょとんとする。
せんせ~、何になりたいかって?
ぼくじゃ~ん!ぼくになりたいに決まってんじゃ~ン!
いったい誰になるっていうの?


人はつねに何かになろうとする。
アナと雪の女王の日本語主題歌があそこまで受けたのは、ありのままの自分でいたい!という心のさけびじゃないか?女の人がカラオケで熱唱するのは、ずっと自分でない、何かにならなければいけないと思い込まされていたことからの解放宣言ではないのか。

ただそこにいるだけで価値がある。
小学生の彼は、自分の価値を認めている。
そこから行動することはゼロからの出発なので、何かをするとは、「自分への挑戦」だ。結果なんか気にしない。やりたいからやる。根拠なく、やりたい。
そこに他人に認めてもらいたいから、という動機がない。

自分に価値がないと思えば、つまりマイナス出発で行動する動機は、人に認めてもらうことが大前提だ。純粋な挑戦ではないので、結果を気にする。結果が良いことによって認めてくれると思っているからだ。
ところがそれではマイナスをゼロにはできない。人は認めてくれ続けないもの。
だから延々と認めてもらいたがって行動しつづけることになる。
それは底なし沼のような展開をする。


私たちはずいぶん長いあいだ無価値観を刷り込んでしまって、その小学生の彼のようにはなれない。しかし私たちには意志力という才能がある。

今この瞬間に、自分はただここにいるだけで価値があると、自分で自分に宣言するのだ。
そしてそうであるかのようにふるまい続ける。

本当の価値は、あなたそのものだ。


2014年12月23日火曜日

やまんば、サルと目が合う



きのう畑に向かっている途中で、何かと目が合った。
いっしゅん「はっ」とした。
おそるおそるも一回見直すと、サルが人の畑でお食事中であった。
しかもあっちゃこっちゃにいる。。
げ!

うちの畑に来て現実を知る。
レタスは根元を食い散らかされて全滅。
ダイコンもほぼ全滅。
三浦ダイコンは引き抜けないらしく、地面すれすれまで食われて、白い断面を見せている。
白菜は頭からかじられて、完食。
スティックセニョ~ルも全滅。
サトイモの残ったものも消えていた。
おそらくかろうじて残ってたであろうジャガイモも消えているだろう。

やまんばは、かじられたダイコンを引っこ抜き、かじりかけの白菜を収穫し、根元を食われてそこらに転がっているレタスの一部をひろい、サルさんからのおこぼれをもらう。

一番近くの畑も凄まじい状態であった。きっと畑のぬしがみたら、なげくだろうな。


不思議と心は静かだった。
ここまでヤラレると力が抜けるのだろうか。
それとも別の理由だろうか。

食べているところはやはり根元のあたり。きっと植物のエネルギーが充満しているところなのだろう。野菜をうんとたべて、かれらもあったかく冬を越せるといいな。。。

などと、マジでそう思った自分がこわい。

2014年12月20日土曜日

小さな心のちがいは、じつは月とスッポンほどちがう



小保方サンの研究が、残念な結果に終わった。
彼女は一連の巨大なプレッシャーの中で戦っていたに違いない。
できなきゃいけない、証明できなきゃいけない。でなきゃ、わたしはつぶされる。。。
そう思えば思うほど、皮肉なことにそうなっていく。

それまでは、「あ、できちゃった!またできるかな?うん!できた!るんるる~ん」って、つくってきたんだろうな。

でも彼女の「できちゃった」ことが、あまりにもすべての土台をひっくり返すよーなことだったので、あたまのかたいおっさんたちに嫉妬された。そこで人々は彼女のアラを探すよーになる。

するとまあ、でてくるわでてくるわ、破壊的なノートの数々。つっこみどころ満載の彼女スタイル。そりゃ、おっさんもメディアもおいしいわな。本題よりも、そこツッコミをしていれば、人々は彼女を疑いはじめ、存在自体が怪しーものに見えてくる。

このあいだまで、国民的英雄持ちあげだったのが、いきなり全世界を敵にまわしてしまった。
その重圧は、あの若い彼女にはとんでもなく重くのしかかる。いや、若くなくたって、心臓に剛毛が生えた政治家さんだって。

自分の全存在をかけた実験だっただろう。
今の彼女の心境は、とてもじゃないが推し量れ切れない。
影ながら応援していたやまんばは、彼女の今の状況を本当に気の毒に思う。


私らが目で見ているマクロの世界よりも微細なミクロの世界は、ダイレクトに心の影響を受けるようだ。それはあると本当に確信した瞬間、出現する。しかし実験者の心に疑いが生じれば、それは出現しない。
証明できなきゃいけないというおもいは、確実にその存在に疑いをもって臨んでいる。
ないかもしれない。。。は、ないを生みつづける。

最初の「できちゃった!るんるる~ん」と、
後半の「証明しなきゃいけない」のちがいは、
月とスッポンぐらいのちがいがあるようだ。
 
彼女の一連のことは、私たちが日常何気なくくりかえしていることを、端的に表してくれている。
「できちゃった!」と「できなければいけない」のちがいを、心は調節できるのだろうか。

「できちゃった!」は、「できるかな?どお?」って、ワクワクしながら臨んだ結果ではないか。
それは軽くて明るい。

「できなければいけない」は、「できないと私は終わる。。」と、悲壮感漂わせ臨んだ結果ではないか。それは重くて暗い。


前者にドラマはないが、後者にはドラマがたっぷりある。
どっちをえらぶかはあなたしだい。
決まった運命なんてないのかもしれない。







2014年12月16日火曜日

頭は「ない」「ない」「ない」といいつづける



モーニングノートは、あれからときどきやっている。
けさおもしろいことに気づいた。

思考は言葉だ。いわゆる知られているいくつかの感情も、言葉に触発されてやってくる。
だから頭で考えていること=言葉。
なのでモーニングノートにかかれるということは、自分の頭の中を”みる”ことができる。自分の頭が日頃どんなパターンの中にいるのか視覚化できるのだ。

そーすると、自分がいつも「ないもの」に集中していることに気づく。
「あるもの」にはちっとも心がいかない。

「あ~、カラダがあったらなあ~」
とはいわない。なぜか。あたり前だ。カラダはすでにここにあるからだ。

けれども、
「あ~、やせてたらなあ~」
という。なぜか。やせてない、とおもっているからだ。

「あ~、お金がもっとあったらなあ~」
という。なぜか。お金がない、とおもっているからだ。

「お金があるなあ~」
という人はいない。
なぜか。
お金がある人が、「ある」とは、いちいちいわないからだ。

だが、お金をとられるかもしれないと思う人はやっぱり悩む。どろぼうにはいられないためにはどーするか、だまされないよーにするにはどーするか。

心というか、頭というか、考えは、「(お金が)あること」にはむかわず、「(取られ)ないこと」に向かう。

心は、「ない」「ない「ない」といいつづける。すると量子力学でいくと、「ない」ことが現象化される。

「ない」→「ないことを制作する」
「ない」→「ないことを創造する」
「ない」→「ないことを作り上げる」

あははっ。これってどーよ。
ないことを前提にすれば、必ず「これは問題だ。ナントカせねば」と解決策を練る。そこで心はアーダ、コーダと考えつづける。

しかし頭で考えつくものは、すでに知られているものからしか引っ張って来れない。君の頭のパターンはすでに出尽くしているのだよ、ワトソン君。

しかも「ない」が前提だから、現象はひたすら「ない」ことを作りあげ続けてくれる。それを目の当たりにして、
「いかん!これではいかん!なんとかせねば!あーだ、こーだ。。。」
というドラマが、朝の連続テレビ小説のよーに延々と続く。

だ、か、ら、
無心になれとか、
無我の境地とか、
考えるな!感じろ!とか、
手放せとか、
サレンダーとか、
今に生きろ!とかいうんだあ~。


それ、やっててもきりないよ。
それ、やってても解決なんかしないよ。
それ、やってても苦しいだけだよ。
って、いう意味だったんだな。



考えて出た答えはたいてい消極的なものになる。
へとへとになって、「もう、だめ。。」って、ちからぬけたとき、今までとぜんぜんちがうアイディアがふと浮かぶ。
その瞬間「あ。。。。?」とおもう。

でもそれは今まで考えたこともないアイディアなので、すぐ、
「それって、こわい。。。」とおもうだろう。未知なのだ。未知だからこわいのだ。
しかしその未知は、あなたをいつも回っているサイクルから脱出させるカギになっている。


道はいくらでも四方八方に広がっている。
あなたもやまんばも、思考によって同じ道をぐるぐるまわっている。自分の思考のパターンを知り、それを外から見た時、あなたはすでに別の場所に立っていて、いつもとちがう風景がみえている。



2014年12月15日月曜日

助けつづけること



人を助けることは大切なことだと思うけど、助けつづけることは、その助けられている人を生かすことになるのだろうか。


母が言う。
「あのねえ。きのう市役所の人が来て、びっくりされた」
「なんで?」
「あんたは病院をムリヤリ退院して、わたしらはその後てっきり施設おくりになる状態になっていると思って今日やってきたのに、全然違うじゃないのって」
母はひとりで料理も洗濯もしている。


人は人生の途中で色んな事件があって、その時人に助けてもらうことはとても大切なことだとおもう。
でもその助けは一時的でいいのではないだろうか。
そこから先は自力で生きる。それが人として生きることかもしれない。

母は病院の中で、母より後あとに入院した、最初は「お父さん」と呼んでいた人たちが、どんどん身内が誰かもわからない、言葉もしゃべられない状態になっていくのを見ていたと言う。そして彼女はこうはなりたくないと心底思ったと言う。

助けてもらうと生きた心地がする。ああ、よかったって。で、次は自分で生きることを選択することが、その人がその人らしく生きることじゃないだろうか。

やまんばもふくめて、みんなあったかいところがいいし、手取り足取りやってもらうことは気持ちいい。でもそれを続けていると、不思議なことに、人のカラダも心もその環境の中でそれに見合ったカタチになっていく。

薬も一生飲みつづけるものもあるよね。一時的に必要なものはあると思うけど、ずっとそれを飲まなきゃいけないようなカラダなのだろうか、人類って。そんな軟弱なカラダでありながら、何万年も生きてこれたんだろうか。
それはそう教えられたからではないのか。
そうおもえば、そういうカラダになっていくのではないだろうか。

年はいくと衰えるもの、だから介護されるもの、薬は一生飲みつづけるもの、そういうアイディアにあまり明るい未来ではなさそうだ。される側もする側も、いつか何かしらの矛盾をはらみはじめるんじゃないだろうか。

最近介護疲れで事件が起こるのも、そういうアイディアに対するメッセージのような気がする。





2014年12月11日木曜日

言葉にならないものは言葉にしない



人と会えば、いろんなおもいがあるのをしる。
色んな考えを色んなふうに。
やまんばはそんなおもいを聞きながら、色んなふうに感じる。

家に帰って、今日あったことを思い出す。
するとそこから言葉が生まれようとする。言葉は限定的だ。

言葉の色に乗って、感情が生まれはじめる。
その感情はとっても限定的だ。
怒り、悲しみ、惨めさ、苦しみ。。。せいぜいあって、5、6個の感情の種類。

いや、ここにあるおもいは、そんな6種の数で数えられるような、単純なものではないと感じる。

そこで心の中のいろんなおもいを、言葉に乗せず、ただおもいがあると、感じていようと思った。

すると心の中は、万華鏡のように、色鮮やかな幾何学模様の風景が繰り広げられていた。
やまんばはそれを、何にひとつ言葉に置き換えず、ながめているのだ。そうやって味わっていると、やがてどこかで消化されて消えていった。。。。


不思議な体験だった。
人の心の中は、言葉にならないおもいをいっぱいもっているのだとおもう。
それは言葉にしなくていいのだ。
言葉はあまりにも限定的だ。
言葉にすれば、そこに善悪の2元性を生み、直後に必ず感情を引き起こしてくる。

今度はその感情にカラダが反応し、左脳は「これをなんとかしなきゃ」と対策を練りはじめる。
そこから混乱が生まれる。
そうやって人類は傾向と対策に明け暮れてきたのだろう。


初めに感覚がある。
感覚は、ただ感覚としてそのまま味わう。

それが今に生きているってことじゃないだろうか。
そこにはエゴの関与するところがない。