2009年9月29日火曜日

秋の花粉症!




なんとまあ、わしゃ花粉症にかかってしまったのだ。
春の花粉症ならわかる。秋の花粉症になるなんて生まれてはじめてのことだ。勝手に石けんなし生活をはじめて「花粉症ついに克服だー!」ともろ手を上げてよろこんだのもつかの間、まさか秋にそのおとしまえをつけることに....?

あれは先日、例の「奇跡の畑」おばちゃんがやってきた時のことだ。
な、、、なんか鼻がむずむずする..。ヘーックション!ヘーックション!とでかいくしゃみ2発。ついでにだあだあと鼻水が滝のように流れはじめたのだ。かぜ...?おばちゃんが風邪持って来た...?いやそんなはずはない。おばちゃんとは10メートルは、離れている。それからは私は鼻水をすすりながらの会話だったのだ。
家に戻って一気に爆発。鼻水が止まらなくなった。心なしか身体がだるい。額に手を当てると微熱が...。かっ...風邪だあー!いやひょっとしたら恐怖のインフルエンザか?気持ちがドタバタしている間に、ふと畑のことを思い出す。
そーいやあ、おばちゃんが来る前にわたしゃ何をしていた?確かフェンスに陣取ったイガイガしたツタをかき取っていた。そんときぷわ〜っと粉みたいなもんが飛んでいたなあ....。その粉をわたしゃ、思いっきりかぶりながら作業していたのだ。

ネットで検索「花粉症 秋」
出た。こいつだ。カナムグラ!!!その名も憎たらしい「鉄(カナ)のつる(ムグラ)」!こいつは夏の間からみんなに嫌われていたツル科の植物。ちょっと油断している隙にばんばん大きくなって、草も野菜もなんのその、エンリョのカケラもなくどんどんその上におおいかぶさって自分の陣地を広げてくる。たぶんみんなどこかで見たことがあるはずだ。ちょっと朽ちはじめた家の庭先にはこいつがかならずいる。何がいやかって、あのトゲトゲイガイガした手触り。素手で触ると全身にビッチリハエそろっているするどいトゲにさされる。ところがそのトゲはちっこいもんだからバラの刺のように抜こうったって、どこにあるのかわからないくらいちっこい。抜けないもんだからいつまでたってもチクチクイガイガしたいやーな気分が残る。
神様は何をお考えになってこのような植物を作られたのか。おまけにその花粉まで人にイガイガさせるのかー!おそるべし、カナムグラ!

そんな嫌われもんのカナムグラですが、百人一首の有名な歌に出てくるそうな。

八重むぐら(カナムグラのことらしい) しげれる宿の さびしさに 人こそ見みえね 秋は来にけり 
恵慶法師

歌になるとなんかしみじみとしちゃうなあ〜。形もかわいいし。

とは言うものの、知らない間に草を敵としている私。いかんなあ。まだまだ修業がたりんのだ。
ところで花粉症はどーなるのか。その後の経過を見ることにする。


絵:「ハーバードビジネスレビュー」掲載「ヘンリーミンツバーグ」

2009年9月27日日曜日

奇跡の畑と呼んでください




「こんなんなっちゃって...。
ここまできたらどうしようもないわねえ....」

近所で畑をやっているおばちゃんが、久しぶりにうちの畑にやってきてつぶやいた。
おばちゃんの目に映る目の前の世界は、草がぼうぼうのどうしようも手のつけられなくなった最悪の畑に見えるらしい。

「草に栄養取られちゃうわよ」
「へえ、すんません。忙しいもんで...。まあこんなだらしない私ですが、ひとつ大目に見てやっておくんなまし」
と、わけのわからない江戸弁を使う私。

こんなんなっちゃって...じゃなくて、わざとこんなふうにしちゃったわけですが、おばちゃんは何年も何十年も野菜を育ててきた人。そのおばちゃんに「草、はやかしてマス」なんてじぇったい言えない。そうか、これが自然農や自然栽培をする人たちの苦悩なんだな。とりあえず、その場をごまかしてやりすごすしかない。だって、草を敵とする発想と、草を見方にする発想には決定的な違いがあるのだもん、その違いをそんじょそこらのガキの私がおばちゃんを説得させられるわけがない。離れ小島のようなところにある畑ですくわれた。これがみんなでいっしょに区画をわけてやる畑だと、とてもじゃないがまわりの軋轢に負けてしまうだろう。

「あら、ニンジンが出来てるじゃないの」
とおばちゃんはニンジンを草の中から見つけてくれた。
「ええ、ここにもキュウリ出来てます」と、すかさず私。
「あら!ちょうどいい大きさねえ」
「『(草の中でも野菜が育つ)奇跡の畑』とでも呼んでやってください」
というと、おばちゃんは笑ってくれた。

絵:coopけんぽ表紙「稲刈り」

2009年9月20日日曜日

すべては完璧




私は最近こう思う。まあ、私の勝手な思い込みですんで聞き流しておくんなまし。

この肉体というものは、本来完璧なものなのじゃないんだろーか。ほっておいたら、すべてが滞りなく循環しているものすごい叡智の塊で、すごいバランスでもって動いている完璧なコンピューター、いやコンピューターなんて言ってしまったら、どこかに欠陥がありそうに思えるので、「生き物」とでも言おうか。これは私たちがまったく関与できる次元のものではない、私たちの心や頭が動かしているものじゃないなにかのような気がする。だって、寝ている間でも心臓さんは動き、血液は循環して、消化も行う。細胞は生まれては死に生まれては死にをくり返す。これは私がまったくもってやっていることじゃない。

ところがここに私たちが関与できることがある。それは「壊す」ことだ。その完璧なバランスを崩したり、壊したりして、果ては病気というものにまで持っていくことが出来る。それはなにか。心だ。心と言う考えでもって身体を崩すことが出来るのだ。(あんまり名誉な関与じゃない。つーか、なさけない?)

インドのヨギがいう。
「ニンゲンが老いて死ぬのは、まわりに老いて死ぬものたちを見ているからだ」と。
つまり、人は自分のおばあちゃんやおじいちゃんが老いて死んでいくのを見ているものだから、単純に「ああ、人は老いて死ぬもんなんだな」と思っているだけだと。だからそのように自分もするだけのことなのだと思い込んでいるだけなのだといっている。
それは心と言う存在がそういうものだと思い込むことによって、その身体をそのように持っていくということだ、というのだ。それはそのおじいちゃんおばあちゃんもまたそのおじちゃんおばあちゃんの死を見てきたからなのだ。だから延々とその連鎖は続いているだけのことなのだ。
もしそれが本当なら、ニンゲンはすげー回り道をしている。

でもその言葉は畑をやっていても感じるんだな...。自然はそのままで完璧で、そこに種をまくのはニンゲン。そこで虫が葉っぱ食べたり、草でおおわれたりして「こりゃあたいへんじゃあ」と刈ったり薬蒔いたりする。するとそれまで完璧なバランスをとっていたその場所がだんだん崩れてくる。その崩れてくる様子を見て、またあわてて何らかの処置をする。そしてドミノ式に崩れていく。

野菜は肥料で育つと考えている。ほんとだろうか。
人は薬で治すと考えている。ほんとだろうか。

大きな視点に立ったら、野菜を虫に食われるのはその場所に馴染むための過程なのかもしれない。その種が持つ性質を、その場所に馴染ませるために必要なことなのかもしれない。自然は人間が作ったアンバランスを、その種がその地におろされた時点で、それがそこでいっしょに共存できるように調節してくれているのではないか。

最初にニンゲンが種をまく。そこに自然のバランスの崩れが始まる。
それは完璧であるニンゲンの肉体という大地に「心」という種がまかれることによって肉体のバランスが崩れはじめることに似ていないか。ニンゲンは老いて死ぬという考えの種が蒔かれることに。



その種を今もう一度考え直す時期が来ているように思うんだな。
じつは心だけがそのハーモニーを壊しているだけなんじゃないのだろうか。最近本当にそのことを考える。一体その種というアイディアはどこから来た?それは自分のウチ側からわいてきたアイディアではなく、どこかで聞きかじったアイディアじゃないのだろうか。

ニンゲンはそんなに小さなものじゃない。そんなに弱いものじゃない。もっと大きな存在だ。ただ誰かのアイディアで、お母さんに言われたことで、先生から習ったことで、もっと努力をしろとか、必死で働けとか、ニンゲンは弱いものなのだから守に守ってガードをして生きるのがいいのだとか、自分を小さくしろと思い込まされているだけだ。
だが自然と同じようにニンゲンの身体も臨機応変に変化するのだ。ニンゲンのおよびもしない叡智によって淡々とそしてダイナミックに生かされているのだ。
たとえ心の種によって身体のバランスが崩れても、また再生されるではないか。今そこにあなたも私も生きているように。なんちゃってねー。

絵;教科書「走れメロス」より

2009年9月19日土曜日

怒りのエネルギー




夜、私は何やらハラが立っていた。
私がハラがたつのはだいたいダンナとのことだ。相変わらず私の弱点にするどいツッコミいれてくれる。触れてほしくない部分なのに、そこをほじくられて、クローズアップされてイライラしていた。
そのままふとんに入ろうとするが落ち着かない。そこで、こりゃ感情のエネルギーを「観察」してみるいい機会だと実験に入った。

怒りの感情がそこにある。それでもっと膨らましてみようと
「もっと怒れ。ほれ、もっと怒りよ、大きくなれ!」と怒りをあおった。
するとどんどん小さくなっていく。
「おいおい、小さくなっている場合じゃないぜ。怒っていいって言ってんだから、怒れよー」
と、いううちにヒュルヒュルと怒りはいなくなってしまう。あれ?あっというまにいなくなってしまった。ついでにダンナへの感情もどこかに消えてしまった。何だ、それほどのものだったのか、とどこかでがっかりしながら眠りについた。

夜中....、突然のお腹の痛みに目がさめた。すごい痛さだ。瞬間にこれは寝る前の怒りの痛さだと感じた。ほら、怒ると「ハラがたつ」というではないか。ハラがたって痛みになったのか?あの時の怒りはお腹に来たのだ。なぜか頭に4、5個の痛みの渦がイメージにわいた。黄色と緑のぎざぎざした渦だった。

さて、ここからはおバカな妄想族がやっていることと思いお聞きください。

私はまず、その一つめの渦の痛みを感情を交えず、どこがどのように痛いのか観察をした。ぎゅるぎゅると音がする。エネルギーの渦だ。ジッと観察をしていると、一つ目の渦は消えていった。第二弾の痛みが襲ってきた。また観察を始める。すると今度は観察だけではおさまらない気がしたので、トイレに駆け込んだ。エネルギーが下に降りた瞬間ジャーッと○◯が出た。だいぶ痛みが治まったのでふとんに潜る。ところが今度は痛みではなく胸の奥にムカムカがはじまった。怒りもムカムカと言うではないか。吐いてしまおうかと思ったが、吐くのはきらい。しばらく抵抗する。でもおさまらない。意を決してまたトイレに。指を突っ込んで吐く。2回、3回...。もう胃液だけに変わってきたのでやめにする。ムカムカもおさまったし、痛みも消えていた。しかし完全に体力を消耗している。こりゃまずいとおもったので、最近編み出した手法を使う。題して回転数をあげる術〜。(バカでしょ?ほっといて〜)頭の上から足の下まで一本の直線を頭に描き、それを軸にした卵形の光をイメージする。その卵は三つ重なっていて、一つへ右回りにもう一つは左回りに、そしてもう一つは固定した状態で回転をさせるのだ。どんどん回転を速くしていく。光速よりも早く(の、つもり)回転させる。するとウチ側からエネルギーがわいてくるのがわかった。どこかでこれでよしと思える私がいていつのまにか眠ってしまっていた。
朝起きたら、どこも痛くなかった。ダンナにお腹いたくなかった?ときいたが、「別に」と言っていたので、食あたりではなさそうだ。

つまり私的感情のエネルギー論でいくとだ。
怒りはエネルギーの一種であるから、どこかで噴出しなくてはいけない。ところがそれが出るところがないと、どこかでたまる。それがお腹の消化の妨げになった。で、痛みとなってあらわれる。怒りのエネルギーをどこかで出してしまわないといけないからだ。たとえばそれを薬で痛み止めや下痢止めなどでおさえてしまうと、いつのまにかそれが蓄積して大きな病気となるのではないんだろうか。ガンは抑圧された感情がたまるとなるともいうではないか。

たぶん、夜ダンナに言われたことは、私のこと線に触れる何か重大なことだったに違いない。自分でも自覚しない深いところにあるわだかまり。そこにつんつんと針で突っつかれた気がしたのだろう。何とも言えない重たい怒りだったのだ。

んで、一体ダンナに何を言われたのか?

.....忘れちまった.....。

(あかんわ)

絵:ミステリーブックカバー

2009年9月18日金曜日

なんで生まれてきたんや?




「自然農なんて出来ん!」
そう豪語したのはみどりさん。彼女は、川口さんの元で2年間自然農を勉強された人だ。その人が言い放つ。自然農はむずかしい、と。

「あんなものはねえ、川口さんや福岡さんやから出来ることや。彼らはそれを広めるために生まれてきたんや。私ら自然農するために生まれてきたんちゃうやろ。あたしは古事記をする人なんや。つくしさんはなんで生まれてきたんや?自然農するために生まれてきたんちゃうやろ!」
彼女の言葉にはっとした。

畑はおもしろくっておもしろくって、毎日通っている。頭の中はいつも畑の映像が満載。「今度何植えよう。来月はああしよう」いつのまにか仕事のことは頭のスミに追いやられていた。そんな矢先、友達が大事にしていたスイカが全部見事になくなった。はたしてこれはサルが持っていったのか、イノシシが持っていったのか?心は動揺する。そのとき、これは私へのメッセージなんじゃなかろうか?...こりゃ畑ばっかりやっている場合じゃない。と、その思った一瞬のち、みどりさんからの電話。たたみかけるような冒頭の言葉。ヤバイ。本業に集中しないと!


みどりさんとはひょんなことで知り合った。沖縄で知り合った人が見せてくれた一冊の本「古事記のものがたり」。表紙がかわいいアメノウズメノミコトのダンスするイラストで飾られている。その本はむずかしい古事記の世界をわかりやすく楽しく書き綴った本だった。興味を引かれた私は彼女に会いにいく。よく笑う面白いことばっかり言う、しかし非常に頭のいいするどい直感を持った人だった。彼女は不思議ないきさつでこの古事記に取り組むようになったという。以来、古事記を広める人となった。今は日本中で講演会を開いている。彼女が言う。
「自然農はねえ、自分のやっていることに取り入れればいいんよ。あたしが畑で学んだことは一つやな。イザナギノミコトにイザナミノミコトが「あら、あなたいい男」と言って誘いをかけたら、ヒルコが生まれた。で、やり直しをする。今度は男の方から声をかけた。「あら、いい女」そうして生まれたのが、日本の国を始めとして、八百万の神々や、天照大神やツキヨミノミコトやスサノオたち。
ところが自然の世界もまるで同じ。最初に雌花が咲いても実がつかない。雄花が咲いて咲いて準備ができたところではじめて雌花がやって来る。そこではじめて実を結ぶんや。これはまるで古事記の神さんの話といっしょやろ?これがあたしが自然農やって勉強したことや。それだけでええんや」
古事記ってすごいね。ありがたい神々のお話ですよ〜と見せつつ、もひとつその後ろに宇宙の神髄まで解き明かしている。

彼女にははっきりと自分のみすえる場所が分かっている。「ぶれたらあかんで」そういって切った彼女の電話にきびしさと重さとあったかさを感じた。
は〜、ひさびさにヤラレちまったぜい。

その彼女が久しぶりに東京で講演会を開く。きっと面白い実になる時間をくれるはず。お時間のある方はぜひお越し下さい。

10月18日(日)
『古事記の物語』

みどりさんのホームページ

表の本:「古事記のものがたり」小林晴明・宮崎みどり著/サン・グリーン出版

2009年9月17日木曜日

キュウリは見つけるのが大変




「私は畑でキュウリを見つけるのが得意だ」
なんて自慢するやつはいない。

だが、草ぼうぼう畑ではこれが自慢の一つになる。トマトやナスならいざしらず、他の野菜たちはなぜか保護色。とくに地を這わしたままのキュウリなんか、草にまぎれてどこにいるのかわからない。「ここにいるよ〜」なんて声でもかけてくれればいいが、彼らはじーっとおし黙ったまま勝手に大きくなる。
かくして葉っぱの中で巨大化したキュウリが「げ!」という言葉とともに見つかってしまうのだ。
彼らも私があまりにも見つけるのが下手なせいか、「しょうがないなあ」と色をつけてみせてくれる。キュウリは熟すと黄色くなる。おとなり中国では、キュウリは「黄瓜」と書く。まさに黄色い瓜なのだ。やはり黄色くなるまで熟させて煮たり焼いたりして食べるらしい。きっと黄瓜/きうりが、なまってキュウリになったに違いない。勝手にそう信じている私。日本じゃまだ青ーいうちから食べるからなんで黄瓜なのかわからないだろうが、こうやってほったらかしにしてずぼらな私だから、この真実を知ることが出来る(自慢してどーする)。

それでもその葉っぱの間からちらっと顔をのぞかせているキュウリを発見すると、なんともいえないよろこびがわいてくる。このよろこびを写真に撮っても伝わらないだろう。ぜひ絵にしてみたいもんだが、私の絵の才能でどこまでこのよろこびが伝わるか。しょせん色の構成でしかないのだ。緑色の葉っぱの下に同じ緑色のキュウリ。「なんじゃそりゃ」ってかんじ。
でも実際目で見るとあきらかに何かが違う。それは触覚の違いを感じているのだろうか?いやたぶん、人は葉っぱが出す音と、キュウリの実が出す音の違いを感じているのだ。葉っぱが「ぱっぱらぱっぱっぱ〜」という音を出しているのにたいして、キュウリは「とっくん、とっくん、とっくん...」という音を出している(ホントか?)。

今、そのキュウリは、落花生とアンデスというジャガイモと一緒に育っている。
ナスもピーマンもこのところ急に寒くなったがますます日々大きくなる。肥料など一切あげていないのになんでこんなに育つのか。大自然はすごい。思わず一人感謝の踊りを畑に披露する。

天高く馬も私もこゆる秋であります。


絵:黄瓜ではありません、レモンです

2009年9月12日土曜日

「困ったらそのままにしておけ」



畑に植えた種の芽がでたはいいけど、その元気な双葉ちゃんを片っ端からコオロギが食べてくれる。壬生菜は8割がた食われた。白菜も大根のはっぱも食われた。先日有機農法の知り合いからもらった白菜の苗もこのまま畑に植え替えると、まず100%食われるな。
コオロギは庭で夜聞いている分には「いい声だなあ〜」なんてのんきなこといってられっけど、農家の人にしたらものすごくにくったらしいらしい。私も今そんな気分。どうも土の下にひそんでいて、夜になると出てきて柔らかい野菜の葉っぱをむしゃむしゃと。

「やっぱ、薬使うしかないよ」
と、白菜をくれた人はコオロギ退治の薬を教えてくれる。
でも私は虫も草も敵にしない(ほんとはにくったらしいけど)主義なので、じっとがまんする。

畑でジッと観察していると、たくさん食われたところと、そうでもないところがある。違いを見ると、草を多めにかけてあるところがなんとか保っている。つまりコオロギちゃんは野菜ばっかり狙っているんではなくて、そこらへんの柔らかい草なら何でも食べている模様。そこで恐る恐る草ぼうぼうの中に、あらたに白菜の種を入れてみる。または食われたあとの大根の畝に、新たに蒔き直しをしてその上にも草をぼうぼうとかけてみる。すべては実験だ。

自然農のおもしろいところは、ほとんど方法論がないところ。窒素を何%、カリを何%、堆肥をこのくらい混ぜて、その後何日にこれをやって....というメソッドがないのだ。その場所場所によって、環境によってすべて変わる、という前提に立っている。だからひたすらその場所を観察するしかないのだ。
そういうわけで、私は畑に行くと作業をするよりもぐるぐると歩いて観察している時間の方が長い。はたから見てたら「草ぼうぼうの中をぐるぐる歩く人」にしか見えないだろう。

自然農の川口さんはその著書の中で「困った時はそのままにしておけ」といっていた。ホントにそうだとこのごろ思う。

以前サルが来て食い荒らしたが、退治もせずそのままにしておいたらその後こなくなった。モロッコインゲンにヘソホリカメムシ(ホントはホソヘリカメムシ)が群がった時も「こりゃお手上げだ」と思ってほっといた。そしたら、今はほとんどいない。すごい量のインゲンが取れる。きっとインゲンとカメムシさんの間で何かの取引が行われたのだろう。ニンゲンの及びもしない所で何かが行われているに違いない。川口さんのいう言葉は深い。そのままにしておくのがいいのだ。

たぶん、何かが起こったとき、ニンゲンは「大変だー!」とパニクッちゃって、どうにかしなきゃいけないと思うんだろうな。だからあれを取り除き、これを取り除きする。だけど、それがくるのは何かしら理由があってくるのだ。もしそれをとりのぞいちゃったら、どっかで自然のバランスが狂うんじゃないかな。だからそれを補うために、また虫やら草やらがでてくる。そうするとまたニンゲンは「たっ...たいへんだー!」って、またそれを排除しようとする。


先日NHKで除草剤にびくともしないスーパー雑草がでてきたという番組があったらしい。私は見ていないけど、そういうこともあるんだろうなと思う。排除しようとした結果、「ほんならこうなっちゃうぞー」と草さんが本領を発揮した。この地球上で何十億年も君臨していた植物さん。私は彼らがこの地球上のトップに位置するんではないかと思う(あ、大地の方がトップか)。その何十億年という間に計り知れないくらいの環境の変化があったに違いない。その間をかいくぐって、そのときその場所に応じてどんどん適応してきた彼ら。たかだか最近でてきたあまちゃんのニンゲン種の浅知恵にそう簡単にやられるわけがない。
「植物、なめんなよー」と言われている気がする。


そのままにしておくという行為は、うけみでありながら、じつはおかれた状況を受け入れるというとても勇気のいる能動的な行為なのだと思う。
でもさ、そんなのんきなこと言ってられるのは、これを生業としてないからだと思う。お百姓さんたちは大変だ。

だもんで、今回もそっとしておくことにする。コオロギちゃんが納得いくまで。


絵「はなたれさきち」より