2017年8月3日木曜日

感情を見る



「私がいる」という感覚が、前とすこしちがってきている。

それは自分の感情をみるということをしていることと関係があるように思える。

それまでの私は、受け取りたい感情と、受け取りたくない感情をもっていた。
嬉しい、楽しい感情は、受け取りたいが、怒り、哀しみ、嫉妬、不安などの感情は、受け取りたくないし、見たくも、またその感情を持つ自分をも認めたくもなかった。

だが意識的にその感情たちを見ることによって、何かが溶解して行くのを感じたのだ。

それは何かの方法を使って「消し去る」ことではなく、ただ見る。ただその感情の中にいて、とどまる、味わう。そういうことをしているだけ。

消し去ることは、どこか抵抗がある。これはいやな感情だから、なんとかして消そう消そうとする意図が見える。だが、ただその中にいることは、抵抗ではなく受容なのだ。



わたしは感情的になると、自分を怒らせた相手を責めた。自分がいかに「正しく」怒っているかを心の中でエアー演説をぶちかました。

これをよく見て行くと、怒っている自分に罪悪感を感じるため、それを正当化するために使っているのだと気づく。自分の心の中が、言葉だらけになっていた。怒りを言葉でゴマカしていたのだ。

それは怒りを見ないようにするために、言葉で自分を納得させたり、怒りの気分を変えようとしていたのだ。

ところがエアー演説は、ふくらむばかり。小さくなるどころか、かえって巨大化する。だけど人の生活とはよくしたもので、いきなり別の出来事がおこり、その怒りを忘れて行く。
そうやって、わたしの怒りは解決されないまま、押し入れの中に放置された。





人が怒りを感じるのは、何かがきっかけで出て来る。何もおこらなくて、いきなり怒る人はいない。そしてその怒りの発火点は、人によって微妙に違う。

だから自分がいつも怒っているものに焦点を当ててみるといいかも知れない。たいてい似たようなことがらにでくわして、いつも同じパターンで怒っている。

この現象は、その人それぞれにある種の気づきを与えるために起こっているのではないか?




つづく。

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