「今、どんな感じ?」
と自分に聞く。
「今、どんな感じが身体にある?」
頭のエアー演説には耳を傾けない。言葉に解決法は見出せないからだ。むしろ頭を通さないほうが、なぜか解決されて行く。身体の感覚に焦点を当てると、自然と言葉が消えていく。全身で自分の怒りを見るのだ。
一番最初に意識化された「怒りおどり」はここに書いた。
怒りの感情を全面的に受容することで、それが溶解して行く経験をしたあと、その現象が面白くなって、自分がネガティブな感情になるたびに、それを見るという実験を繰り返した。
そういう過程で、自分がどうして感情的になっているのか、どんな観念が元になっているのかが明確になって行く。自分がわけもなくそわそわしたり、何かに突き動かされるようにして動くその衝動も、理解とともに消えはじめる。そして一回そのことを理解すると、もうその同じ状況で同じ感情はあらわれにくくなる。何かが消化されているようなのだ。
最初ははっきりとした感情、今の日常生活の中で味わう感情。しかしそれがだんだんと、幼児期のころの感情を呼び起こしはじめた。幼いころ味わった哀しみや苦しみや怒り。ずっと押し入れの奥深くに隠しておいたのだろう。それが出始める。
正直いってこれが一番きつい。
この世に生まれて間もなく知る、無慈悲なまでの人間界のルールや出来事。それに出くわした時の、心の整理など自分でできるわけもなく、ましてやそれに気がつく親もそうはいない。何のフォローもないまま、「それはそういうものだ。。」と、いい聞かせながら、子供は成長し、その押し殺された感情は、深い深い井戸の底に置いておかれる。
それがだんだん浮上してくるのだ。
だがそれも受け取られはじめる。
ただ見るということが、何かを動かし、何かを整理し、何かに変容して行く。たったこれだけのことが、いかにすごい叡智なのか。。。私たちが作った「言葉」などではけして解決などできないのだと実感する。
やがて意味のわからない怒りがやってきたとき、これは人類がもつ集合的な怒りの塊なのではないか?とさえおもった。
そしてだんだんと繊細な感情の領域に入って行く。
これは何?このむずむずざわざわした感情は何?怒りなの?哀しみなの?一体何?という感情の領域に入りはじめる。
それでもそれを味わうことをつづけている。
これは何?このむずむずざわざわした感情は何?怒りなの?哀しみなの?一体何?という感情の領域に入りはじめる。
それでもそれを味わうことをつづけている。
その先に何があるのかはわからない。しかし自分が穏やかになって行くのに気がつく。
あれもこれも気になっていたものが、気にならなくなって行く。
自分の中に何かでパンパンに埋まっていたものが、すかんすかんになっていく。
私という個別の存在が、そこらへんにあるものと、まざっていく。
自分というからだは、はっきりとした輪郭を持つ個としての物質というよりは、イワシの大群みたいな、あいまいなものになっていく。
これ、どこかで感じてたもの。。。
そうや。。子供のころの感覚や。。。
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