ドラマの中に「悪者」がいるように、
私たちの人生にも「悪者」がいる。
あの人さえいなくなれば、私は幸せなのに。。。
あの人がああいう人でなくて、こういう人だったら、私は楽なのに。。。
その時、私たちは何気なく、「あの人」を悪者にする。
悪者とは、罪を持った人。
大きな罪じゃなくていい。
道端にタバコ捨てた人でもいいし、
隣でマスク外している人でもいいし、
テレビに向かって文句を言う人でもいい。
罪を持った人を見つけたいのだ。
その時自分は無垢でいられる。
正しい人になっていられる。
でも心のどこかは、なぜかざわざわしている。
だからその居心地の悪さをなんとか解消するために、
エアー演説が始まるのだ。
「ったくもう~、なんて人でしょ!」
なぜその人が間違っているか、どれだけ悪者か、
どんだけ世間に迷惑をかけているのかと、
心の中が大騒ぎする。
しかしそれが収まることはない。
外に罪を見る時、実は同時に自分にも罪を見るのだ。
「カンカンカン!そこの被告人、有罪!」
「カンカンカン!ついでに私も、有罪!」
ってなっちゃうのだ。
となると、罪を密かに隠し持っていると、罰を受けようとする。
実は自らつらい思いやイタイ思いを欲するのだ。
「苦労は買ってでもしろ」と言うほどに、苦労は美徳のように見える。
しかしその後ろには、苦労すればするほどいいことがあるという計算がある。
で、もっと後ろには、苦労という罰を受けたのだから、
神様、私を無罪放免にしてくれるんでしょ?
という神様への取り引きまで入っている。
この一連のことが全部自我の世界でなされていることだ。
ここには愛もへったくれもない、計算と取り引きに満ち溢れる世界。
あなたと私は違う存在どおし。
だから取引によって、うまいこと成立させましょという発想。
それのどこが愛なのだ!
愛って互いが喜びあうもの。
その時、ひとつになってる。
ああ、一緒だったってその時実感しあえている。
なんだなんだ、同じなんだ。
そうだよそうだよ、そうだったんだよ。
ああ~なあんだ。
よかったあ~~って、
互いに手を取り合って、笑いあうもの。
計算したり、予測したり、構えたり、
防御したり、斜に構えたり、
比較したり、勝ち負けを争ったり、
下手に出たり、上から目線だったり
しないもの。
互いが喜びあってる時、罪なんか忘れてる。
ってか、本当は罪なんかどこにもないんだ。
そんなもの、
はじめっからなかったことを思い出すだけなんだ!
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