リトリートの中で印象深かったものの一つが、
エクスプレッションというワークだった。
四人1組みになって向かい合い、
それぞれの心の闇を打ち明け合うのだ。
これはデービッド・ホフマイスターというコースを教える人のメソッド。
その基本になる考えは、「No people pleasing No private thought 」
つまり、人を喜ばせない、秘密の考えを持たないと言うものだ。
一人の持ち時間は10分。
自分がどんな辛い思いをしたか、
どれだけ腹が立ったかなどの個人的な闇をさらけ出す。
その話を聞く残りの3人は、ただ聴く。
うなずきもしない。反応もしない。
ただ聖霊と共にそれを聴く。その話する人に神聖さを見る。
しかし思わずそこに判断やジャッジが入れば、
そのジャッジした自分を聖霊とともに心の中で赦していく。
10分与えられるが、それ以内に終われば、時間が来るまで静寂の中で待つ。
そして次の人にバトンタッチしていく。
そこにはなんの判断も答えも求められない。
こんな単純なワークなのに、そこには実に深いものがあった。
私の友達で、傾聴のボランティアをしている人がいる。
彼女から聞いていた傾聴は、
このエクスプレッションワークと同じではないかと思ったのだが、全く違っていた。
傾聴はその話す人に同調する。
その人と同じ立場に立って、共感をしていくのだ。
大変だったね、辛かったね、と、うなずき相槌を打ち、その時間を共有する。
そしてその人は、癒されていく。
(余談だが、その共感をしていくという過程は難しいらしく、やめていく人も多いという。)
しかしエクスプレッションワークは違った。
話す人には同調しない。その話に乗らないのだ。話に判断解釈さえもしない。
これはどういうことかというと、その出来事を実在させないのだ。
しかし実際やってみるとわかるのだが、
うなずかないというのは案外むずかしい。
思わず心が「それわかる~」とやってしまうのだ(苦笑)
前者は共感によって、話す側、聞く側がお互いにその出来事を実在させる。
だが後者は同調しないことで、互いにその出来事を実在させないのだ。
(どちらが正しいという話ではない。それぞれの目的が違う。)
これはコースの「この世界は実在しない」という教えそのものだ。
そのあとの静寂の中で、心は聞いた話に乗らずその出来事をただ消えるままにしておく。
話す人は、それがあったこととして話すだろう。
しかしそれを聞く側が実在させないなら、それは固形化して形になりようがない。
話す側も聞く側も癒されていく。
これこそが聖霊とともに見るということなのだろう。
聖霊はこの世界のあらゆる出来事を実在するものとして見ないのだから。
この話をダンナにしたら、
「別にリトリートでわざわざやらなくてもうちでできる。
だって俺がそれをされているもん」という。
ダンナがぎゃあぎゃあ言い始めると、私は黙る。
なんのあいずちも打たないし、言葉も入れない。
すると当人は、居心地が悪くなってきてますます腹が立ってくるらしい。
だからひたすら言い続けるのだけど、
そのうちだんだん自分が言ってることがバカらしく思えてくるのだそう。
リトリートでのみんなの感想にそんな言葉があった。
「話しているうちに、なんかどうでもよくなってきた。
大した問題じゃなかったって気がついてきた」って。
これがコースの醍醐味だ。
決して一人ではできない。
一人でこの世界を消すことはできないのだ。
それは兄弟というもう一人の自分、そして聖霊がいるからこそ、
そこにいざなえる、ダイナミックな救済があるのだ。
深え~~~~~~。
絵:水引草と風
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