私は歩く罪悪感妖怪だった。
一足踏み出すごとに湧き上がる罪悪感。
息するように出てくる自分への否定。
あらゆる行為に文句を言い続ける声。
「お前などいる意味がない。何の価値もない。死んでしまえ」
幼い頃から、ずっと聴き続けてきた。
私はここにいてはいけない存在なんだ。
いるだけでその場が汚れる。
皆に不快を与える存在だと。
だけど死ぬことは怖い。どうしていいかわからなかった。
だからテレビで「妖怪人間ベム」の言葉を聞いたとき、戦慄した。
「早く人間になりたい」
幼い私は、
「私も、私も、、、早く人間になりたい!」
この醜いカラダ、醜い存在から全て足を洗って、
みんなのような人間になりたい!と切に願った。
あれからうん十年。一向に人間になる兆しはなかった。
おまけに、あのベムベラベロは、あれから人間になれたのだろうか?
たとえ人間になったとして、果たして彼らは幸せになれたんだろうか?
などと、人間であるフリは身についたが、
人間そのものに疑問を持つ始末。
あるときイラストの仕事でうまく描けなくてウンウン言ってた。
(毎度のことなんだけど)
ううう~~。できない。
「だからお前はダメなんだ。」
じゃあ、どうすればいい?こうすればいい?
と、描きかえる。
「それじゃダメだ。」
また描きかえる。
「それもダメだ。」
そういう心の中でのやり取りをするうちに、
いつまでたってもダメ出しを繰り返すその言葉に矛盾を感じた。
ちょっと待てよ。
「あんた、誰?」
その瞬間、私ではないもの、の存在に気がついたのだ。
私たちは普段、自分の頭の中で聞こえる声は、「自分の声」だと信じている。
だから自分の声だから自分の考えだと思っている。
そして当然、それは「自分の味方だ」と信じて疑わないはずだ。
自分のためを思って言ってくれている声の、は、ず。。。
ところがこの声は自分を破壊する方向に向けていく。
ダメ出しを連発。どこまでもダメ出し。
それでもその切磋琢磨があるからこそ、私はいい作品ができるんだと信じた。
そして相変わらず罪悪感妖怪は、巨大な罪悪感を抱えたまま生きていた。
この苦しみは一体なんなのか。
自分がいけてないから苦しいんだ。
自分が間違っているから苦しいんだ。
だから正しく生きなければいけないんだ。
だけどどうやって正しく生きるのだ?
その間何十年も探究を続けた。
しかし苦しさは消えなかった。
そして奇跡のコースにたどり着いたとき、
長年私に取り付いていた罪悪感の正体がはっきりとわかったのだ。
コースほど、罪悪感について、
これほど明確に何一つブレのない解説してくれる本はなかった。
私は救われた思いがした。
そしてそれがなんなのか、形而上学と、実践と、体験を通してわかり始めた。
自分の中から罪悪感が消えていく。
消えるほどに、考え方が変わっていく。
あらゆるところに私を解放させるヒントが散りばめられていた。
この世界自体が、解放のための巨大な教室だったのだ。
あの声はどんどん小さくなってくる。
それに反比例してどんどん平安に愉快になっていく。
あの声自体が、私をすでに人間たらしめていたのだ。
人間にさせるための声だった。
小さな肉片の中に閉じ込められたような生き物。
あの妖怪人間さえも人間だった。
いや、彼らはまだ救われるところに近かったかもしれない。
なぜなら自分の苦しみを自覚していたから。
きっと彼らは、ある時、求めるものが違っていたことに気がついただろう。
人間になることではなかったと。
あなたを破壊や否定をしようと促すその声を、聞き逃さないでほしい。
それが苦しみの原因なのだ。
そしてその声はあなたから出たものではない。
あなたにささやくものだ。とても大きな声で。
それを聴くということは、その声はあなたではないということだ。
たとえ心の中で聞こえようとも、それは外から聞こえている。
それをハッキリと外に見たとき、解放への扉が開く。
「あんた、誰?」と。
形を持った人間ではない、
本当の自己へと導かれる瞬間だ。
絵:モンスター列伝/似顔絵ー児玉誉士夫
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