心は活動的だ。
常に何かを作り出し続けている。
これが神の子のゆえんなのだろうか。腐っても鯛なのだ。
ところが何と一緒になって作っているのかが問題。
ほとんど自我と一緒になって作り事をしているのだ。
いや100パー自我と、と言っても過言ではないだろう。
そもそも聖霊と一緒に創造するってことがなんなのか知らない
(すっかりコン抜け落ちている)のだから。
自我と一緒に何を作り出しているのか。
この世のことである。
朝目が覚めた瞬間から、この世界のことをどーしたこーしたと語り始める。
そもそもこの世界は自我が作り出した仮想世界。
だから自我がそれを推ししないわけにはいかない(笑)。
そのために恐れが利用される。
「こうなったらどうする?路頭に迷ったらどうする?」
「え。。ヤダ。。」
「だろう~?だからこうやっておくのさ。」
と、私を奴隷にさせる。
活動的とは、常に何かを作り続けていること。
恐れを作り続けているか、愛を創り続けているか。
恐れは時間と空間を生み出した。
知覚はそれをとらえる。
時間と空間ができたから知覚ができた?
知覚ができたから時間と空間が生まれた?
わからん。
しかし真の知覚というものがあるらしい。
だけど自我と一緒に何かを作り出している限り、真の知覚とはなり得ないようだ。
時間は恐れを生む。
心を見ていると、いかに時間の中にいるかわかる。
未来の心配だ。
過去の怖かったことを思い出し、未来に備えるのだ。
これが世界を作出する。
世界は時間と空間と恐れと罪悪感に満ちている。
なんで?
自我と作ってるからだー。
ワッセ、ワッセと、四六時中、自我と一緒に、
荒ぶる妄想の世界を作り出している。
ちょっと待ったーっ!
そのワッセワッセをやめる。
もう自我ではなく、聖霊さんと一緒に創造する。
で、聖霊さんの創造とは?
わからん。
おそらく愛なのだろう。(あてずっぽうかい!)
そうなのだ。神の子の創造とは、今の私にはちっともわからない。
永らく自我さんとご一緒させていただいていたのでね。
だけどこいつじゃないとわかる。
こいつはあかんやつだ。
自我と一緒にいたら、いつも時間の中にいる。
過去に罪を見て、未来を恐れる。
今とは、過去から未来へのただの通過点にする。
「今?大したことない。ないない。そんなもの」と、軽くあしらう。
自我にとって今は一番ヤバいこと。
一番なかったことにしたいもの。
推しはやっぱり過去と未来。
でも違ったんだ。
今というものは、とんでもないしろものだった。
今には時間がない。
今には出口と入口がある。
妄想からの出口と実在への入り口。
今の中に静かにいる。
真っ白で何の形もない光の中に。
そこに私の忘れていた創造がある。
なんかわかんないけど、
そこに心はいつも触れていたい。
絵:「秋の山」けんぽ表紙イラスト
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