今にいるって、心が安心している時なんだろうな。
心は絶えず未来の不安に向けて何かしら考えている。
今日は何しよう?これからどうする?あの問題をどうやって解決しようか?
そういった未来への心配が全くない状態。
何も考える必要がない。
だから今にいて、今この瞬間に安堵して楽しんでいられる。
当たり前のように信じていた「常識」という信念を
聖霊によって取り消してもらうたびに、
心は少しづつ軽くなっていった。
ある程度の信念が解放されると、とても楽になった。
そしてまた訪れる苦しみ。
そしてまた手放し。解放。苦しみ。
そういうローテイションが起こっていた。
しかし同じ繰り返しではなく、
らせん階段を降りていくように、少しづつ変化している。
それまではわかりやすい言葉があった。それを捧げて行けばよかった。
だが徐々にはっきりとわかる信念ではなく、精妙なものに触れ始める。
そして全く言葉にもならない、
振動のような恐れにたどり着いた。
一体何を感じているのかわからないが、
とてつもない罪悪感が私を襲う。
重低音の膨大な量の声が私の中を駆け巡っていた。
一晩中その振動に脅かされる。
聖霊に捧げるも何も変わらない。
息を殺して耐えた。
その頃だったか、線路に飛び込もうとした衝動があったのは。
生きているのも苦しくて、消えてしまおうとした。
しかし今それをやっても、また同じことがやってくることはわかっていた。
今ここで乗り越えなくてどうする。
意志の力がそれを止めていた。
そんなことが起こるあたりから思ったのだ。
「これはいい、悪い」という信念とは、罪のことではなかったか。
タバコのポイ捨てでさえ、私たちはそこに罪を見る。
あんなことをやっちゃった。
あるいは、あんなことをしている人がいる。
自分の外や内側に何かを見つけてそれをつかんで、それについて語る。
テレビやネットのニュースを見て、ああだこうだと意見を言う。
語るなんていうのは優しい言い廻しだ。
実はさばくという行為で、攻撃している。
私たちは罪を見れば自動的にさばきたくなる。
私は罪を見たがっているのではないか?
自分や兄弟に罪を見ることを嬉々としてやっている。。。!
私はゾクッとした。
それがコースのいう罪の魅力だ。
私たちには、罪を探すという衝動があったのだ。
罪は、罰とセットだ。
罪を犯せば、必ず罰が下る。
心はひとつだから、兄弟に罪を見れば、それは即自分にも罪があるということになる。
だから罪と罰はセットなので、自動的に自分に罰を与えることになるのだ。
罪を人に見ようが、自分に見ようが同じ。
あると見たなら、自分に無意識に罰を与えようとする。
なぜならその罰で苦しむことで、自分は罪を償うことができると信じているのだ。
これがずっとずっと繰り返されている。。。。
唖然とした。。。
これが自我がやっていることだ。
自我は罪を見たがる。見せようとする。
心を観察していると、
自分の問題、兄弟の問題、あれはどうなった?これはどうするんだ?
絶え間ない葛藤を心は喋っていた。
「これは嘘なんじゃないか。。。?」
それまで心の中でしゃべっていることは、自分の味方だと思っていたのを
自分を惑わす声であって、自分の味方ではないのではないかと気づき始め、
ことごとく声の内容を吟味してみた。
「根拠がない。。。」
まるで根拠がなかった。。。。
私はその声をそのまま放置した。
自分や兄弟に、罪を見るんだと促す声に取り合わなくなった。
私たちの目の前に展開しているように見える世界。
これはただ起こっているだけではなさそうだ。
私たちはただなすすべもなく、
起こってくるものに翻弄されているのではなく、
自分が信じたものを見ているのだ。
世界は悪い奴がいっぱいいると思えば、
そのような世界を見る。
自我はその見ているものを使って、
「ほら、ここに罪がある。君が罰するべきだろう」
と言い、この世界を実在させ続ける。
聖霊はその見ているものを使って、
「ここに君が信じているものがある。
それを私とともに赦し、終わらせていかないか?」
と、実在しないものを終わらせていく。
ある時、突然「罪などない!」
というインスピレーションが来たことがあった。
それはとんでもない開放感だった。
罪がないとはこういうことなのか!と、聖霊が教えてくれた一瞥だった。
聖霊は、時々こうやって向かう方向を指し示してくれる。
この世は幻想だと頭で否認して終わらせるのではなく、
直に体験として聖霊に導かれて教わっていくこの醍醐味は、
本当にありがたいことだ。
それは自分が一人ではないことをも実感する。
そして私はいつの間にか、罪というものが
単なる間違った考えに過ぎなかったんだと思い始めた。
コースは「罪」などない。
それは単に間違った考えだ。
それは聖霊に訂正してもらうだけのことだ。
と、いとも簡単なことのようにいう。
そんなバカなと思っていた。
罪悪感妖怪だった私にとって、
「罪」とは、山のように重たく硬い、
絶対的な存在を持った、一生ぬぐいきれないもののはずだった。
最初は重く硬い罪がそこにあった。
それがだんだん溶けるほどに、罪は柔らかくなり、
やがて単なる間違った考えだという、吹けば飛ぶような煙に変わってきた。
ある夜、自分のみじめさに泣いていた。
これをどうやって取り除いていいかわかりません。。。
聖霊さん、あなたの見方を教えてください。。。
恐れに震えながら、
ふと「私はこれをただ選択しているだけなんじゃないか?」
と思った。
これを選ばないことができるのか。。。
そう思った瞬間、みじめさが消えていた。
心は一瞬で切り替わる。
そう教えられた瞬間だった。
見えている現象が変わったから変化したのではない。
ただ、心が変わったのだ。
すべては選択だった。
どちらを選ぶ?
という二者択一。
愛を選ぶのか、恐れを選ぶのか。
どちらを選ぼうと、神は赦している。
ゆっくり目覚めなさい。
私はいつでもここにいる。
絵:「はっとする」今度の展覧会の作品
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