2022年11月17日木曜日

罪悪感が消えていく私の場合のプロセス


 歩く罪悪感妖怪の私が、

だんだん罪悪感が消えていくプロセスを書いてみようと思う。


私は自分に罪悪感があるということを

コースを始める前から知っていたことは、

皮肉なことにラッキーだったと言えるかもしれない。


だって愛の障壁を取り除くことを目的としているコースは、

自分にはその愛を妨げる罪悪感があるということを自覚することが大事だからだ。





だがその罪悪感についての詳細な心の動きについてさらに詳しく知り始めると、

それまで見え隠れしていたものがはっきりと見えてくる。

その圧倒的な罪悪感の存在に逆にやられてしまうのだが、

これはおそらく避けられないことなんじゃないだろうか。



はっきりと見えるとは、不快感が訪れる時だ。


「う。。。。来た。。。」


不快な感情がやってくる時、体がぎゅっと萎縮したり、

心臓がばくばくすることもある。

何より心はまったく落ち着かない。


そういう風に体に反応が起こる。

その感覚を覚えておくといいと思う。

なぜならその感覚を、否定も肯定もせずに「見る」ということができるからだ。


この「見る」という行為は訓練だ。

心の訓練はここから始まる。


普通はその不快感に瞬時にほとんど自動的に反応し、

即座にこの不快から離れよう、なかったことにしよう、

他のことをして気を紛らわそうとし始める。


それは「いけないことが起こった!」という判断によるものだが、

この「ここから逃れたい!」という思いは、

太古ティラノザウルスが襲ってくるからその場から逃げ去ろうという爬虫類脳的動きかもしれない。

しかしここにはティラノザウルスもいないし、生死に関わる状況でもない。


落ち着いて、それまでやっていたことを止め、

静かになって心に聞く。


「私は今不快です。恐れを感じています。

これはなんですか?聖霊さん、あなたの見方を教えてください」


この時、自我の場所に立っていない。

恐れはあるが、自我ではない、別の見方があると冷静に見ようとする意欲がある。


すると、こうあるべきなのに、こうでない自分の現状を嘆き苦しんでいることに気がつく。


そこには信念があった。言葉だ。

その信念に基づいて判断が起こる。

「これはいいこと、悪いこと」という判断。

その判断によって、自分や兄弟をさばく。


たった今不快になったのは、その信念からくる判断によって、自分をさばいたからだ。


恐れは、感情と身体的反応によって気づくが、

その元々の原因は、信念(言葉、考え)なのだ。


コースのいう心とは、原文でmindと書かれている。

マインドとは考えである。

このマインドが、自我の考えを選ぶのか、元々の私たちの考えである聖霊の考えを選ぶのか、

私たちの幸不幸は、その選択にかかっているのだ。



であるならその不快にならせしめた信念を疑うことなのではないか?

その信念があるから苦しむのだから。


本当にその信念を持ち続けていていいのか?と。


そうすると自我はこうささやきかける。

「いいのか?その信念を手放したら世の中はめちゃくちゃになる。

お前が取り締まらなくて誰がやる?」と。


例えばタバコのポイ捨てをする人がいることに腹がたつとする。

その信念を手放したら、

世の中の道路という道路はタバコの吸殻でいっぱいになるだろうと自我はいう。


それが自我の論法だ。

見えている世界にアプローチをかけるべきだという。


しかしその世界を見ているのは私だ。

タバコのポイ捨てに気がついている間は、

常にポイ捨てが目に入るだろう。

そして捨てる人をさばき続けるのだ。


この苦悩を選び続けるのか、その信念を手放したいと思うのか。

その信念を手放した時、何が起こるのか。




私は不快や罪悪感を感じるたびに、

そこにある信念に気づき、その言葉を聖霊に捧げ続けた。


「今、私にはこういう信念があります。

この信念を持ち続けている限り、事あるごとにこの判断をし、罪悪感に苛まれます。

もうこれを手放したい。

でもこれを自分で手放すことはできません。

聖霊さん、あなたにこれを捧げます。

どうか取り消してください。」


手放すことは自分ではできない。

なぜかというと、その世界を作り上げた張本人だからだ。

自我は自分が作ったものを否定することなどしない。

だから全く別の視点を持った聖霊にとりなしてもらうのだ。



今、自分が捧げた信念を思い出そうとするが、

もう思い出せない。


それはもう私の中にないからだろう。

そしてそれに対する判断も、そこから起こる恐れや罪悪感も消えてしまった。



信念が手放された時、何が起こるのか。

ポイ捨てタバコは、もう目の前から消えてしまうのだ。

それは「私が見たいもの」ではなくなったからだ。


それでも私はまだここにいる。

取り消しきれないものがまだあるからだ。


例えばタバコのポイ捨ては、枝葉の先っちょの信念。

その下にもっと大きな信念が隠れている。

分離の信念、自分は体であるという信念。。。

この信念は並大抵のことでは取れない。

(取れたらこの世界は消滅するw)


だからまずは玉ねぎの皮の見えているものから手放していく。

枝の先っちょの葉っぱから取り消してもらっていく。

長年この世界に慣れ親しんでいるので、

いきなりは最後には到達できない。

きっと狂ってしまうだろうから、神は優しく少しづつやるように勧める。


そうするごとに少しづつ、氷山がじわじわ上がっていき、

罪悪感という氷が溶け始める。


だから体も軽くなってくる。

だんだん愉快になってくる。

これは罪悪感による押さえつけが外れてきているからだろう。



さて、この言葉による信念の解体が始まってから、

あることに気がつき始めた。


このことはまた次回。




絵:今度の展覧会に出す作品「そよ風」







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