2022年3月6日日曜日

幻想を幻想として

 



起こっているけど起こっていない。

という非二元の言葉がわからなかった。


現れているものは真実であるが、

それに意味をつけて、解釈判断をすることによって、

頭の中で展開していく物語が幻想である。


そして目の前にあわられているもの、すべてが私。

人も木々も建物も、そして空気でさえ、すべて私が表現されている。

それは私という大きな意識から現れてくるもの。


私とは意識であり、空。

そして現れているものは、色。


それはただ現れる。それをただ現れるがままにしておく。

これが至福。愛の表現。

そこに愛が現れるだけなのだ。


そこに意味をつけて、

ストーリーにしてしまうから苦悩が生まれる。


現れるがままなのが完璧。

しかしなぜ現れるのかは知り得ない。


現れては消えていくもの。

それが「私」であり「意識」であり「愛」。。。



7年ほど前、非二元スーパーウーマンが登場して、

私も非二元を必死で勉強した。


現れてくるものは知り得ないもの。

目覚める私などいない。

悟る個人の私などいない。それはただやってくるもの。。


勉強すればするほどわからなくなった。




そこからコースを知った。


コースは目の前に現れるものに意味づけをし、

解釈をして物語を作り上げることも幻想なら、

その目の前にあるものもすべて幻想だと説く。


その考え、その考えからくる感情、目の前に広がっている景色、

その五感の感覚、すべてが幻想。


そしてなぜ現れるのかは、知り得ないことではなく、

実は私が作り出したものだ。


目の前に現れているものすべてが私というのは非二元と同じ。

私の考えがそこに現れたのだから。

この体も景色も全部ひっくるめて、

それを作り出したのは私。

つまり意識であり空。


「作り出したのは私」とは言わないが、

そこまでは非二元と似ている。


しかしその意識とは、常に対象物を見ている。非二元というより二元。

その意識は、見るものを必要としている。




コースはその作り出した理由をはっきりと説明する。

その対象物を必要としたのは、

見ることによって、自分の無罪性を証明したいからだという。


無罪性を証明したいというのは、

実は自分には罪がある!と信じているからだった。


その自分が犯したと信じている罪から逃れるために、

この世界を作った。

その世界に罪を見て(罪を押し付けて)自分には罪がないと言いたがっている。

こうやって自分が信じたものを投影し続けている。

だからこの目の前に見えている世界は私そのものなのだ。


しかしこの「罪、罪悪感」というフレーズ。

ピンとこないし、居心地が悪い。


コースよりも非二元が人気があるのは、

この罪悪感に触れてこないからだ。

自分の隠し持ったものを見る必要はないのだから。



でも本当は罪などない。

罪があると信じただけなのだ。

罪があると信じたからこそ、この世界がある。


罪がないことを知るためには、
一旦自分に罪があると信じていることを
自分に正直に見ないことには始まらない。
見て、認めて、
それを赦すことによって、
徐々にそれがないと知り始める。


だからこそ、ここは実在しない。

罪などないのだから。


これがあるだけ、ではなく、

これもない。


起こることが起こっているのは、

起こっていることを見て、

それを判断なしに見ることよって、
本当は起こっていないことを知る。


幻想を幻想として知るために、

日々罪を見る自分を赦していく。


目の前の煙幕の世界を見過ごしていくうちに、

しだいに平安とともにある、本当の私/自己に触れていく。





絵:山桜/和紙



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