起こっているけど起こっていない。
という非二元の言葉がわからなかった。
現れているものは真実であるが、
それに意味をつけて、解釈判断をすることによって、
頭の中で展開していく物語が幻想である。
そして目の前にあわられているもの、すべてが私。
人も木々も建物も、そして空気でさえ、すべて私が表現されている。
それは私という大きな意識から現れてくるもの。
私とは意識であり、空。
そして現れているものは、色。
それはただ現れる。それをただ現れるがままにしておく。
これが至福。愛の表現。
そこに愛が現れるだけなのだ。
そこに意味をつけて、
ストーリーにしてしまうから苦悩が生まれる。
現れるがままなのが完璧。
しかしなぜ現れるのかは知り得ない。
現れては消えていくもの。
それが「私」であり「意識」であり「愛」。。。
7年ほど前、非二元スーパーウーマンが登場して、
私も非二元を必死で勉強した。
現れてくるものは知り得ないもの。
目覚める私などいない。
悟る個人の私などいない。それはただやってくるもの。。
勉強すればするほどわからなくなった。
そこからコースを知った。
コースは目の前に現れるものに意味づけをし、
解釈をして物語を作り上げることも幻想なら、
その目の前にあるものもすべて幻想だと説く。
その考え、その考えからくる感情、目の前に広がっている景色、
その五感の感覚、すべてが幻想。
そしてなぜ現れるのかは、知り得ないことではなく、
実は私が作り出したものだ。
目の前に現れているものすべてが私というのは非二元と同じ。
私の考えがそこに現れたのだから。
この体も景色も全部ひっくるめて、
それを作り出したのは私。
つまり意識であり空。
「作り出したのは私」とは言わないが、
そこまでは非二元と似ている。
しかしその意識とは、常に対象物を見ている。非二元というより二元。
その意識は、見るものを必要としている。
コースはその作り出した理由をはっきりと説明する。
その対象物を必要としたのは、
見ることによって、自分の無罪性を証明したいからだという。
無罪性を証明したいというのは、
実は自分には罪がある!と信じているからだった。
その自分が犯したと信じている罪から逃れるために、
この世界を作った。
その世界に罪を見て(罪を押し付けて)自分には罪がないと言いたがっている。
こうやって自分が信じたものを投影し続けている。
だからこの目の前に見えている世界は私そのものなのだ。
しかしこの「罪、罪悪感」というフレーズ。
ピンとこないし、居心地が悪い。
コースよりも非二元が人気があるのは、
この罪悪感に触れてこないからだ。
自分の隠し持ったものを見る必要はないのだから。
でも本当は罪などない。
罪があると信じただけなのだ。
罪があると信じたからこそ、この世界がある。
罪がないことを知るためには、
一旦自分に罪があると信じていることを
自分に正直に見ないことには始まらない。
見て、認めて、
それを赦すことによって、
徐々にそれがないと知り始める。
だからこそ、ここは実在しない。
罪などないのだから。
これがあるだけ、ではなく、
これもない。
起こることが起こっているのは、
起こっていることを見て、
それを判断なしに見ることよって、
本当は起こっていないことを知る。
幻想を幻想として知るために、
日々罪を見る自分を赦していく。
目の前の煙幕の世界を見過ごしていくうちに、
しだいに平安とともにある、本当の私/自己に触れていく。
絵:山桜/和紙
0 件のコメント:
コメントを投稿