2022年3月12日土曜日

自分でできるもん


 


昔、畑でどうしていいかわからなくなったとき、

自然農の川口さんの言葉を思い出していた。


「困った時は、そのままにしておきなさい」

その言葉通り、そのままにしておくと、自然にことは動いていった。




最近「判断しない」をやっている。

(しないをやるってオモロい)


「これはいいことなのか。悪いことなのか」

そう言う判断を私たちは頻繁にやっている。


それは「自分で解決しなければいけない」と言う、

物心ついたころから染み付いた条件反射のような思い。


それは相当な緊張を生む。

今のその私のいいか悪いかの判断一つで結果が出てしまうのだ。


そしてその「自分で判断できるもん!」というていでやってきた結果がコレだ。

全然幸せじゃない!



形而上学を学ぶほどに、だいたい自分で判断などできないんだ

と言うことがだんだん明らかになってくる。


全ての条件を満たした、誰もが幸せになるいいアイディアなど、

60年しか生きてこなかった私にできるわけがない。

それができる人は、500年は生きてこないとわからないだろう。

。。。いやもっとかもしれない。


「自分で判断できるもん!」のはずが、

じつは自分は何もわからなかったということを知る。



ということで、私は片っ端から

「私は何もわからない。自分で判断しません!聖霊さん、お願いします!」

と、密かに宣言するようになった。


不思議なことに、その何もわからないアホになると、

自由な気分になるのだ。




ある日、あるできことがあった。


「え~~~。もう、私にゃ、わっかりませーん!

何も判断できませーん。

聖霊さんにお任せします!」

と、まな板の鯉になる。


お任せして勝手に自由な気分になって気楽に散歩していると、あるイメージが。。。


「え?あれ、やるの。。。?

いやいや。無理でしょう。。。。


でも浮かんじゃった。。。

じゃあ、その件、聞いてみるか。。。。」


やるかやらないかも自分で判断しないでいると、

あれよあれよというまにやることに(笑)。


それが良い結果になるのか悪い結果になるのかわからない。

それさえも判断しない。

そもそも良い悪いという判断さえ必要ないのではないか。



判断しないことによって、心が静かになっていく。


自分でやろうとしていた頃は、あれじゃないこれじゃないと、

あれこれ考えに耽っていた。

それは今思えば「良い悪い」に囚われた罪悪感が心を乗っ取り、

責任重大の心でドラマが繰り広げられていたのだ。


今はその罪悪感がどこかに消えてしまっている。


考えが浮かんでも、瞬時に「判断しない」と思う意欲が、

その考えを消し去ってしまう。


そして起こることは、いつも何かに支えられて起こっている。

それを良いとか悪いとか判断するものをはるかに超えた何か。


その断片を感じられる喜びがそこにある。





絵:「三年寝太郎」


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