昔、畑でどうしていいかわからなくなったとき、
自然農の川口さんの言葉を思い出していた。
「困った時は、そのままにしておきなさい」
その言葉通り、そのままにしておくと、自然にことは動いていった。
最近「判断しない」をやっている。
(しないをやるってオモロい)
「これはいいことなのか。悪いことなのか」
そう言う判断を私たちは頻繁にやっている。
それは「自分で解決しなければいけない」と言う、
物心ついたころから染み付いた条件反射のような思い。
それは相当な緊張を生む。
今のその私のいいか悪いかの判断一つで結果が出てしまうのだ。
そしてその「自分で判断できるもん!」というていでやってきた結果がコレだ。
全然幸せじゃない!
形而上学を学ぶほどに、だいたい自分で判断などできないんだ
と言うことがだんだん明らかになってくる。
全ての条件を満たした、誰もが幸せになるいいアイディアなど、
60年しか生きてこなかった私にできるわけがない。
それができる人は、500年は生きてこないとわからないだろう。
。。。いやもっとかもしれない。
「自分で判断できるもん!」のはずが、
じつは自分は何もわからなかったということを知る。
ということで、私は片っ端から
「私は何もわからない。自分で判断しません!聖霊さん、お願いします!」
と、密かに宣言するようになった。
不思議なことに、その何もわからないアホになると、
自由な気分になるのだ。
ある日、あるできことがあった。
「え~~~。もう、私にゃ、わっかりませーん!
何も判断できませーん。
聖霊さんにお任せします!」
と、まな板の鯉になる。
お任せして勝手に自由な気分になって気楽に散歩していると、あるイメージが。。。
「え?あれ、やるの。。。?
いやいや。無理でしょう。。。。
でも浮かんじゃった。。。
じゃあ、その件、聞いてみるか。。。。」
やるかやらないかも自分で判断しないでいると、
あれよあれよというまにやることに(笑)。
それが良い結果になるのか悪い結果になるのかわからない。
それさえも判断しない。
そもそも良い悪いという判断さえ必要ないのではないか。
判断しないことによって、心が静かになっていく。
自分でやろうとしていた頃は、あれじゃないこれじゃないと、
あれこれ考えに耽っていた。
それは今思えば「良い悪い」に囚われた罪悪感が心を乗っ取り、
責任重大の心でドラマが繰り広げられていたのだ。
今はその罪悪感がどこかに消えてしまっている。
考えが浮かんでも、瞬時に「判断しない」と思う意欲が、
その考えを消し去ってしまう。
そして起こることは、いつも何かに支えられて起こっている。
それを良いとか悪いとか判断するものをはるかに超えた何か。
その断片を感じられる喜びがそこにある。
絵:「三年寝太郎」
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