2014年7月11日金曜日

恐怖とワクワクは紙一重?



「さっきまでものすごう雨ふってたから、窓あけてながめてたんやけど、もうやんでしもうた。おもしろうない」
きのう朝10時頃高知の母に電話する。こっちは心配して電話してんのに、雨やんでおもろうない、などとほざきおる。

「おう、今こっちは思いっきり晴れちゅうぞ。台風どこいったんやあ?」
と、昼過ぎに今度は父からの電話。確かその時間は台風さんは室戸沖にいたはず。。。
「目の中にいるんじゃないの?」と私。
「目の中なもんか。どこっちゃあにおらんが」
と不満げ。(見えるんかい)

ドーーーモ、高知県人は台風がお好きらしい。
来る来るゆうて大騒ぎしては、たいした事なかった~といって、不満がる。
来てほしいんか。ホンマはドドーンと来てほしいんやろ!ええ?

今度の台風は鳴り物入りでやってきた。父だけじゃあないはずだ。高知県人はきっと嬉々として台風の準備をしたに違いない。
わくわく、どきどき。くるくるくる。。。、
きっ、、、、、来たああ~~~~~っ!と。

母は言う。
「天が大騒ぎするとあたしはうれしい。あたしをゆさぶってちょーだい」
こらこらあんた、何を不謹慎な。。。よそ様に聞かれたらなんていわれるか。。。


ひょっとして、、、恐怖とワクワクは紙一重なんじゃないか?

ジェットコースターは安全装置が働いてるから、だからワクワクするんだっていう。だけどほんとにそうか?ほんとはいつだってぜったい安全じゃないだろ。バンジージャンプだって、いつ切れるかわからないじゃないか。
絶対安心だから恐怖をワクワクしているわけじゃない気がする。ほんとは、恐怖自体がワクワクなんじゃないか?お化け屋敷行くのと、心霊スポットに行くのは、結局の所、おなじじゃないか?


「あんた、台風が好きなんだとばっかり思ってたよ」
と、ウチのダンナは言う。
わしゃ、台風が来ると怖くて怖くておろおろしていたつもりだったのに、はたから見たら「おもしろがっている」よーにみえたらしい。

とゆーことは、ほんとはわしは台風が好きなんか??本人が自覚してないだけなんか?


ひょっとしたら、母は自分に正直なだけかもしれん。
わしらは恐ろしことがあってはいけない、惨めな事になってはいけない、という善悪の基準がある。だからそんな不謹慎なこと考えてはいけないと思って、ほんとはワクワクしている自分ををセーブしているとしたら、こんなもったいないことはない。


最近は特に善悪の基準がはっきりと現れている。台風が来て多大な被害を被る人のことを考えると、「台風うれしい」なんて、口が裂けても言えない(口が裂けたら言えなくなるが)。そんなトーンがこの世にあふれている気がする。だから素直に自分の意見を言えない空気がある。

だけど心のどこかで恐怖はワクワクとつながっているって知ってたら、もし悲惨なことが自分の身に起こっても、それはチャレンジがやってきたのだ!と受け止めると、それもまたよろこびなのではないだろうか。

運命はひとりひとりにていねいに出来事をくれる。
それは偶然に、だれでもよかったんだけど、たまたまあなたにおこってしまったような悲劇ではなく、何かもっと、ひとりひとりにとっての大きな意味のあるものだ。
去年、仙台で出会った被災された人々にも、そのような何か大事なものがあたえられたような、そんな感じを受けた。それは今思い出しても、心が熱くなるようななにか大きなもの。。。


仕事が干されるかもしれない。のたれ死にするかもしれない。悲惨な人生になるかもしれない。人はそんなふうに考えている間、恐怖を感じている。だけど実際それがおこるとは限らない。いやむしろその確率はものすごく低かったりする。
だけどその間、カラダは震え、ぞくぞくし、場合によっちゃあ、かあ〜っと熱くなり、「生きている!」という実感がある。
まさに台風は風が横なぶりに吹き、大雨が降る。その瞬間、おれは生きているぞお~~っ!という確かな実感がある。


高知県人はそれを味わっているのかもしれない。酒飲んで、おいしいものを食べて、ふっといことゆうて大騒ぎして、大雨大風にうたれて、命を思いっきり謳歌する。

それってニンゲンとしてすごいおもろい人生じゃないだろうか?

今まさに怖がっている自分をふと振り返って、
「ひょっとして今、私ワクワクしてない?」
って、心にそっと聞いてみるのもいいかもしんない。


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