「わたし治ったがよね?」
母が電話のむこうで聞く。
「うん。治ったよ」
しばらくたって、また聞く。
「わたし治ったがよね?」
「うん。そうやちや」
それはさっき聞いただろ。
「わたし、こうなってこうなったってことは、ホントに治ったがやろうか?」
「んーもう!治ったってさっきから言ゆうやろお!」
人は自分がこれでイイんだってことを、自分自身で認められない。だからその道のエライセンセにお伺いを立てる。しかしそれでお墨付きをもらったとしても、やっぱり不安がつきまとう。だから一人より大勢の方がイイだろうってことで、センセ以外の誰かにも聞いて確認する。
人のこと笑えない。
「わたしの人生、これでいーんだろうか。。。ね?これでいーの?」
「しらねえよ」
冷たく言い放つダンナ。
学校で先生に答えをもらう。
「1たす1は、2です。」
「正解の人~、手をあげて~!」
「はあ~いいい~~~!」
「ン。ほとんどの人が手をあげましたね。正解です」
こんな単純なことが、私らのその後の人生にパターンを作る。
答えは自分ではない、よその誰かがもっている。
しかもその答えは大勢の人が言ってくれる方が、もっと正解である。
自分の人生を誰かに預ける。親に預け、子に預け、センセに預け、神様に預ける。
はて。
ホントにそーなの?
じゃあ、ず~~~~~~っと、年がいってもどこまで行っても、誰かが教えてくれる答えを待ちつづけるわけだ。ンで聞いて確認とっても、不安がやって来ると、また誰かに確認する。
「ねえ。あたしこれでいーの?」
「。。。。それはあなたが決めることです」
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