さいきんやまんばが意図的にやっていることがある。
それは「今までと同じ反応をしない」ことをやってみるのだ。
人は起きた出来事に対して、自動的に「同じ反応」をしているようなのだ。マシーンのよーに「A」という出来事が起こると、「赤!」という反応をするだけ。
パブロフの犬が、ベルを鳴らすたびによだれをたらすよーなもんだ。
ベルとよだれはまったく結びつかない。だけどパブロフさんちの犬は、ベル=よだれ、なのだ。
人もけっこうアホウな所があって、「A」といやあ、「赤」だろ!と信じて疑わなかったりする。しかし人によっては「A」といえば「青」だろ!と信じて疑わなかったりする。
とゆーことは、「A」と「赤」は、ホントはちっとも結びつけるヒツヨーも法則もなかったりする。
あるときその人は、Aと赤を結びつけてしまって以来、そのまんまマシーンのよーにただ同じ反応を繰り返しているだけなのだ。
それはそのまんま、そのひとに同じ出来事を繰り返し引き寄せることになっていく。
あろうことか、本人が「あれ?これ同じ反応をしている」と気がつくまでやり続ける。
うちの母がいい例だ。
彼女の人生は、あるときまで非の打ち所がないくらい完璧だった。美人で、お金持ちで、頭もよく、茶道、華道、料理、絵と、センスはばつぐんだった。
「あんたが道を歩くだけで、あたしらあ、うれしゅうなる」
と、ありえねえぐらい近所のおばさんたちによろこばれる。
そんな彼女が職場で、
「あなた歩くの遅いわねえ」
と言われてしまったのだ。
ふつー、そんなことにそれほど反応はしないだろう。だけど彼女はその日からそれが人生の呪縛になってしまった。
「あたしは歩くのが遅い。。。」
このコトバがずっと彼女の心に住みついた。
完璧だったはずの彼女が、歩くのが遅いという汚点を作ってしまったのだ。これを克服しなくてあたしの人生はありえない!となってしまった。
彼女は歩くたびに、身体を動かすたびに自分のことをチェックする。
「あー、歩くのが遅い。あー、いかん、こんなんじゃ」
そのうち自分のカラダをムチ打つようになる。
「いかんいかん!もっとはよう!もっとはよう歩かんといかん!」
意識すればするほど歩みは遅くなる。ますます自分のカラダが気に入らなくなっていく。そしてますますムチ打つようになる。そして歩くのが遅いどころか、歩けないほどになっていく。
そんな彼女の様子をずっと見てきた。
もし、彼女の中で「歩くのが遅い」というコトバがなかったら、どうなっていただろうか。自分の歩きが遅いことに、まったく違う反応をしていたらどうなっていただろうか。
気にもとめていなかったらどうなっていただろうか。
そして「いかんいかん」と言い続けているコトバによって、逆にそれが引き寄せられているのだと気がついたらどうなるのだろうか。
人間がどれだけ観念にふりまわされているか身近で見ることができる。
パブロフの犬でいうなら、母は、
「歩くのが遅い=いかん!」なのだ。
人はそれぞれ、項目別に反応している。
Aには赤の反応。Bには黒の反応。Cには緑の反応、Dには、、、、と。
自分がつねに心でぼやいている言葉があったら、それがその人のもんもんとしたものからの脱出のポイントになる。やまんばは「ちゃんとしなきゃ」だった。
そのマシーンのような反応が、その人の人生の色合いを作っている。その色合いがもし気に入らないのであれば、自分がもつそれぞれの反応を変えてみるてのはドオ?
やまんばは自分の反応に気がつくことによって、自分が何をどう考えているか、無意識にどんな行動をしているかが気づくようになってきた。そして知らなかった面白い自分を見つけはじめている。すると自分がどんどん好きになってくるではないか。(きゃー、どないしょー)
人は本人が思うほど、つまらない生き物ではない。
その奥の奥にすごい可能性を秘めている。
多分それを見つけ出すために、私たちはこの地球に物質として降りて来てるんだと、さいきん本気で思う。
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