2017年8月6日日曜日

最近の和紙の作品たち



「飛び石」
和紙、水彩、オイルパステル、色鉛筆
いつもながめている庭に飛び石がある。
夏の午後、その石をテーブルにして、コーヒーやビールを飲む時間が好きだ。
草たちが自身の姿を誇るように、石の上をはう。
一瞬、飛び石が舞台になり、草たちがその上で踊っているようにみえた。





「紫色の木」
和紙、水彩、オイルパステル、色鉛筆
アスファルトの道から、一歩森の中に入ると、
すっと涼しい風がほほをなでる。
杉林に入ると、また一段と温度が下がる。
その青い空気感を作品に。




「ホタルブクロとドクダミ」
和紙、オイルパステル、水彩、色鉛筆
どちらも地味で花屋の店先にはけして並ばない花。
だけどすごく個性的。
野の花には、こういう個性的なものが多い。
それを和紙で挑戦してみる。
和紙は何でも味わい深くする。




「ドクダミ」
和紙、水彩、オイルパステル、色鉛筆
我が家の玄関口に今年はいっぱい咲いたドクダミの花。
名前だけ聞くと、ドキッとするような響きだが、
この花をひそかに愛する人は多い。
葉っぱといい、花といい、すべてはキュンとするようなカタチをしている。
しかしいったん手に取ると、独特のにおいが。。。
このコントラストを表現してみたかった。







「夏」
和紙、水彩、オイルパステル、色鉛筆
和紙はいろんな表情を見せる。
強烈に薄い和紙、強烈に分厚い和紙、
透明で、不透明で、その表現は縦横無尽。
私はそれをカッターで切り、ちぎり、その効果をためす。




「春」
和紙、洋紙、オイルパステル
一本の木で春を表現できないかとおもった。
架空の木。山が笑ふように、木もまた笑ふ。




「針葉樹」
和紙、洋紙、オイルパステル、水彩
家の前には、スギとヒノキの林がある。
針葉樹はどこかつっけんどんだけど、
心の中はあったかい、だれかさんのよう。
それをイメージしながら、思うがままに色を置いてみた。





2017年8月3日木曜日

感情を見る2


怒っている自分に気がつくと、私はその場で静かに自分を観照する。仕事をしている時はその仕事をしている最中に、手が空けられる時は椅子に座って静かにみる。

「今、どんな感じ?」
と自分に聞く。
「今、どんな感じが身体にある?」

頭のエアー演説には耳を傾けない。言葉に解決法は見出せないからだ。むしろ頭を通さないほうが、なぜか解決されて行く。身体の感覚に焦点を当てると、自然と言葉が消えていく。全身で自分の怒りを見るのだ。

一番最初に意識化された「怒りおどり」はここに書いた。

怒りの感情を全面的に受容することで、それが溶解して行く経験をしたあと、その現象が面白くなって、自分がネガティブな感情になるたびに、それを見るという実験を繰り返した。

そういう過程で、自分がどうして感情的になっているのか、どんな観念が元になっているのかが明確になって行く。自分がわけもなくそわそわしたり、何かに突き動かされるようにして動くその衝動も、理解とともに消えはじめる。そして一回そのことを理解すると、もうその同じ状況で同じ感情はあらわれにくくなる。何かが消化されているようなのだ。

最初ははっきりとした感情、今の日常生活の中で味わう感情。しかしそれがだんだんと、幼児期のころの感情を呼び起こしはじめた。幼いころ味わった哀しみや苦しみや怒り。ずっと押し入れの奥深くに隠しておいたのだろう。それが出始める。

正直いってこれが一番きつい。
この世に生まれて間もなく知る、無慈悲なまでの人間界のルールや出来事。それに出くわした時の、心の整理など自分でできるわけもなく、ましてやそれに気がつく親もそうはいない。何のフォローもないまま、「それはそういうものだ。。」と、いい聞かせながら、子供は成長し、その押し殺された感情は、深い深い井戸の底に置いておかれる。
それがだんだん浮上してくるのだ。

だがそれも受け取られはじめる。
ただ見るということが、何かを動かし、何かを整理し、何かに変容して行く。たったこれだけのことが、いかにすごい叡智なのか。。。私たちが作った「言葉」などではけして解決などできないのだと実感する。

やがて意味のわからない怒りがやってきたとき、これは人類がもつ集合的な怒りの塊なのではないか?とさえおもった。

そしてだんだんと繊細な感情の領域に入って行く。
これは何?このむずむずざわざわした感情は何?怒りなの?哀しみなの?一体何?という感情の領域に入りはじめる。
それでもそれを味わうことをつづけている。


その先に何があるのかはわからない。しかし自分が穏やかになって行くのに気がつく。
あれもこれも気になっていたものが、気にならなくなって行く。
自分の中に何かでパンパンに埋まっていたものが、すかんすかんになっていく。

私という個別の存在が、そこらへんにあるものと、まざっていく。
自分というからだは、はっきりとした輪郭を持つ個としての物質というよりは、イワシの大群みたいな、あいまいなものになっていく。


これ、どこかで感じてたもの。。。
そうや。。子供のころの感覚や。。。



感情を見る



「私がいる」という感覚が、前とすこしちがってきている。

それは自分の感情をみるということをしていることと関係があるように思える。

それまでの私は、受け取りたい感情と、受け取りたくない感情をもっていた。
嬉しい、楽しい感情は、受け取りたいが、怒り、哀しみ、嫉妬、不安などの感情は、受け取りたくないし、見たくも、またその感情を持つ自分をも認めたくもなかった。

だが意識的にその感情たちを見ることによって、何かが溶解して行くのを感じたのだ。

それは何かの方法を使って「消し去る」ことではなく、ただ見る。ただその感情の中にいて、とどまる、味わう。そういうことをしているだけ。

消し去ることは、どこか抵抗がある。これはいやな感情だから、なんとかして消そう消そうとする意図が見える。だが、ただその中にいることは、抵抗ではなく受容なのだ。



わたしは感情的になると、自分を怒らせた相手を責めた。自分がいかに「正しく」怒っているかを心の中でエアー演説をぶちかました。

これをよく見て行くと、怒っている自分に罪悪感を感じるため、それを正当化するために使っているのだと気づく。自分の心の中が、言葉だらけになっていた。怒りを言葉でゴマカしていたのだ。

それは怒りを見ないようにするために、言葉で自分を納得させたり、怒りの気分を変えようとしていたのだ。

ところがエアー演説は、ふくらむばかり。小さくなるどころか、かえって巨大化する。だけど人の生活とはよくしたもので、いきなり別の出来事がおこり、その怒りを忘れて行く。
そうやって、わたしの怒りは解決されないまま、押し入れの中に放置された。





人が怒りを感じるのは、何かがきっかけで出て来る。何もおこらなくて、いきなり怒る人はいない。そしてその怒りの発火点は、人によって微妙に違う。

だから自分がいつも怒っているものに焦点を当ててみるといいかも知れない。たいてい似たようなことがらにでくわして、いつも同じパターンで怒っている。

この現象は、その人それぞれにある種の気づきを与えるために起こっているのではないか?




つづく。

2017年8月2日水曜日

半醒半睡の中で。。。


うつらうつらしていると、家ががたがたと音を出した。身体もゆらゆら揺れている。地震だ。。。

地震があると、身体がこわばる私だが、そのときはただそのようすをながめていた。

こうやって、すべての事は現れて、動いて、消えていくんだな。。。

あたまの中でいろんなシーンが浮かぶ。
ああ、あれも、これも、それも。。。ああ、そうか。。。


動いて行く現象に、私たちは名前をつける。
名前を付けられた時点で、それをわかったような、知ったような気になる。するとそれは固定化されたもののように見え始め、その名前を貼られた現象が、とつぜん特別なものに見えたり、忌み嫌うものに見えたりしはじめる。

求めれば求めるほど、嫌えば嫌うほど、それはどんどん強烈に存在しはじめる。

そうやって、私たちはいいもの、悪いものをつくり、苦しみを増やして行くのか。。。。


半醒半睡の私はなぜか納得していた。


「沈没船が教える世界史」MF新書表紙イラスト

2017年7月29日土曜日

肩書き「自分」


「自分になるために学びは必要ですか」
ムージの言葉だ。
ドキッとする。

自分になるために。。?

私はずっと自分に「私はイラストレーターだ。私は女だ。私は56歳だ。私は日本人だ。。。」と、いっぱい肩書きをはって来た。

肩書きとは、外にあるイメージだ。
イラストレーターのイメージ、女というイメージ、56歳のイメージ、日本人のイメージ。。。
その外のイメージに、自分を当てはめる。そうすると自動的にそうでない自分を見つけてしまう。

イラストレーターは、こういうイメージだよな。
今の自分は?
え!じぇんじぇんちゃうやんけ!
じゃあ、そのイメージになるために、こーやって、あーやって。。。と。

女はこういうイメージ。。。
自分は?いや、じぇんじぇんちゃうやんけ!
そのイメージに合わせるためには、あーやって、こーやって。。。と。

そーやって、自分が勝手につけた肩書きに、あわせよう、あわせようとしてきたのだ。

それ、自分?

自分じゃないものに、そう、自分じゃない型に、自分をはめ込もうとしていたんだ。
「イラストレーター型」、「女型」、「56歳型」、「日本人型」「ナンチャら型」

そもそもなんで「型」にはまらなきゃいけないんだ?
そう教わったから?
そのほうが、気持ちが安心するから?
人を安心させるから?
社会を安心させるから?

だけどその型って、すっごく抽象的。しかもそれに資格などあるわけもなく。
「あなたはみごとにイラストレーター型にはまりました。おめでとうございます!」
と、賞賛されるわけもなく。


その漠然とした抽象的な、おばけのような「型」に、無意識に振り回されている自分を発見する。

小さいとき、「何になりたい?」ときかれて、
一瞬、どうして外の何かにならないといけないのだろう?とおもった。だけど私は母の思いをくんで「看護婦さんになりたい!」と答えたものだ。

そういう問いに対して、
「自分になりたい!」と答えた、ある子供の話しを思いだす。


冒頭の言葉「自分になるために学びは必要ですか?」


自分って何やろ。
それまで自分じゃないものに、無理矢理自分を押し込めようとしていた。
でも、自分になるためって、、、、まさに今のこの状態やんけ。
それって何の型もない。
型は、まさにわたしそのものだ。

何の型もないものだとしたら、無理矢理その中に入る事もない。
そのまま、今ここで出発できる。
しかもどうあろうと、それが自分、そのままなのだ。

そこに学びはあるのか。
自分自身であるなら、外に教えを乞う必要もない。
そして発見がある。
どんどん掘り下げて、どんどん発見して行く。


「大きくなったら、なにになりたい?」
「大きくなったら、大きな自分になりたい!」

名刺にこう書くのだ。

肩書き:自分
名前:つくし


来年の確定申告の職業欄にこう書いちゃおうか。



絵:「炎」

2017年7月23日日曜日

言葉という魔法


言葉にすると、それはリアルになります。

それまで、ぼよぼよふわふわぼよーんとしていたものが、
「これは○○です」
という名前を付けた瞬間、ぼよーんとしか見えていなかったものが、ゆっくり、急速に形を持ちはじめ、それが○○になります。

「これは○○という出来事です」
と、何かの動きの連続性をみつけ、「出来事」として言った瞬間、それが○○という出来事になります。

わしらの目の前には、最初っから独立して物体が存在していたのではなく、それを誰かが個別の存在としてみつけ、それに名付けたから、みんなはそこを注目しはじめ、リアルなカタチに見え始め、定着し、だれもがそれを
「これは○○です。あたりまえじゃ」
となっていきました。



生まれてまもない頃、目の前のぼよーんとした存在が、こちらに向けてくりかえし、同じ音を発しつづけているので、こっちにあるものは、「つくしちゃん」というものなのだとおもいはじめる。
んで、あっちにあるものが、「おかあさん」というものなのだとおもいはじめる。そうしてこっちとあっちに分れ、その音を出す存在が、カタチとしてくっきりと見え始め、それが、あれは○○、これは○○と、独立した個別の物体を教えてくれる。

そうやってわしらは、音という言葉とともに、この世の「リアル」を作り続けて来たのだ。


今日も新しい言葉/名前が生まれる。
きのうまでなかったものが、今日突然存在しはじめる。
言葉という魔法によって。



絵:表紙イラスト『M1戦国史』

2017年7月21日金曜日

アーシングの威力



庭ではだしになる。
畑ではだしになる。
ついでに畑ではだしで歩いてみる。
ついでにはだしで野良仕事してみる。

こんなに心地よいとは思わんかった。

ふわふわした土の感触。
さらさらした草の感触。
でこぼこした石の感触。
ちくちくした刈ったばかりの草の根元の感触。

むき出しの足の裏が、あらゆる物体の存在を教えてくれる。
いや、そんなことよりも、なんとも言えぬ、なんだろう、ずいぶん忘れていた感覚。。。子供の頃に知っていた感覚。
大地と、この世と、直接触れているという実感と安心感。。。

その感覚にひたろうとすると、大人になった疑い深い心がさわぐ。
「汚い。危ない。破傷風になる。。」


アーシングという言葉を聞いたのは、つい最近だった。
エハンデラヴィという冒険家が教えてくれた。

地面に直接足をつけることは、じつはわたしは昔から知っていた。
身体に電磁波がたまるから、大地に足をつけて放電しなさいと母に言われていたことがあったので、ときどき地面に足と手をつけて四つん這いになって、
「ほうで~~ん!」
と叫んでいたから。

それを徹底してやったことはなかったが、ここに来て、この「ほうで~ん!」がいかに身体に良いか、いかに私たちが常日頃電気まみれになっていて、それを放電する機会がないかを知る。

さすがに夏の虫が多い時期に、畑ではだしで野良仕事もできないので、黒足袋を履いて作業をしていた。

地下足袋はゴム底なので絶縁する。だから普通の綿素材の黒足袋を着用。


ある日、足の裏に異変を感じた。
「あれ?魚の目が。。。。?」

それはかれこれ10年以上は持っている持病の魚の目。
さながら活火山のように、カルデラがぱっくりと深い口を開け、カルデラのフチは毎年のように高くなって行く。歩くとフチがあたって痛いので、ときどきカッターで削ぎ落とすが、ほどなくしてまたカルデラのフチは高くなる。それをカッターで削ぎ落とし。。。
そうやって10数年、この魚の目火山と戦って来たのだ。

それがある日。
「か、カルデラが消えてる。。!」
ぱっくりと深い底なしの穴を見せていたはずのカルデラが平らになっている。
「えーーー。なんでえーーー?」


頭をぐるぐるめぐらせる。最近何か変わった事をしなかったか?
ある!あれしかない!アーシング!

1ヶ月前から畑と庭でやっているアーシングだ。
調子がいい、野良作業が疲れない、などの効果は実感をしていたが、魚の目まで治すとはしらなんだ。恐るべし!アーシング!



おもしろいので、写真を撮ってみた。
お見苦しい写真を失礼いたします。

これが6月20日、最初に発見した、消えていくカルデラの様子。
元の姿をお見せできないのが残念。(そんなもん、いらん)
なんともいえぬひどいカルデラであった。


それから20日後/7月10日。
そこに何かがあった足跡はあるが、これがかつて活火山だったとは夢にも思うまい。


そして、10日後/7月20日。
もはや大きな指紋の一部のようにしか見えない、かつての魚の目火山。



アーシングは、私たちの身体にたまった電磁波を放出して、自然体に戻してくれるというだけではなかった。

植物が根を張るために大地を必要とするように、人間もその根のごとく、大地を必要としていたのではないか。それが60年代に靴の底にゴムを貼るという画期的な文明のせいで、大地との交流が絶縁状態になった。そこからありとあらゆる病いや問題があふれて来たのではないだろうか。


眼に見えない根っこが大地と私たちを結んでいる。大地も私たちの皮膚の一部ではないか。いや、私たちこそが大地の一部なのだ。

魚の目事件をとおして、大地とのつながりをじかに実感させてもらったいい体験だった。

大地さん、ありがとうーーっ!
魚の目さん、ありがとうーーーっ!