2024年10月14日月曜日

幸せになることを許可する

「コオロギのなくころ」和紙、水彩


「幸せになることを許可する」


ある時からそう自分に言い始めた。

恐れを引き起こす考えが浮かぶと、

「私は幸せになることを許可する」

とつぶやく。

すると恐れの感情や思いが、す~っとどっかに行ってしまう。


恐れの思いが消えると、途端に安心感がやってくる。

これはなんだ?


そう言う体験を何度もするうちに、

恐れって自分が自分にやっているだけじゃないんか?

意味もなく自分で自分を恐れさせて、ヒーヒー言わせてるだけ?


もし恐れがなかったら、私たちは何もしなくてもそのままで幸せの中にいる。

もともと私たちは幸せそのものなんじゃないか?

恐れがそれを見えなくさせているだけなんじゃ?

恐れの考えって、なんで出てくるんや?




人は心の深いところで、苦労することは美徳だと思っている。

私もずーっとそう思ってきた。

意識しないほど、息するように。


だから、頑張ったらできる!頑張らなければ!

頑張ってこそ、ご褒美としていいことが起こる!とやってきたのだった。


でも疲れた。

幸せになるためには、その前に苦労が伴わなければならない、

嫌な思いをしてからでないと幸せになれないなんて。

ほんまにそうなん???


どうも、私たちには、不幸というものが前提になっているようだ。

なんでや!?


どうも、私たちは、自分は罪深い、と思っているようなのだ。


いつもどこかビクビクしている。

「お天道さんが見ているから、悪いこたあできねえ」

とか言う。


それはまるで、見てなかったら思わず悪いことしてしまう。。。

ってな考えがあるかのよう(笑)


自分を見張ってないと、悪いことや間違ったことをしてしまう生き物だと信じているフシがある。

だから人まで見張る(笑)。


と、言うことは、

悪いことすることや間違ったことをしてしまうという罪には、罰がセットになっている。


罪びとは牢獄にぶち込まれたり、刑に処せられなければならないのだ。


だから、私たちは不幸や苦労を背負い込む。

なんでか知らんが生まれながらにして罪びとだから、

苦労は買ってでもしなければいけないのだ。

楽してたらろくなことはねえんだ。


と言う思いに63年間苛まれてきたが、ここらで方向転換することにした。




「奇跡のコース」によると、私たちはどうも罪人ではないらしい。

罪びとでもないのに、勝手に罪びとだと思い込んで、

自分で自分に罰を与えているようなのだ。


んで、「それ、ちゃうよ、めっちゃ勘違いやで。

あんたら罪なんかひとっつもないんだからあー!」

と、あの分厚く難解な言葉で、延々とそのことを説いてるんや。


だったらなってやろうじゃないの。幸せに!

ってことで、

「私は自分が幸せになることを許可する!」と、許可しているのだ。


許可って、許しじゃね?

「奇跡講座」の本ではそれを「赦し」と書いているけど。


つまり自分が幸せになることを赦すのだ。


それは心がフワッと軽くなる。


「え。幸せになっていいんだ、私。」


「もちろん、いいんだよ!本当は今でも幸せなんだよ、君は。」


「え。まじっすか!」







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