心の中の苦悩を吐露する。
これがどんなに心を癒すのか、だんだん気がついてきた。
少し前、爆発的に怒った私がいた。心の中の思いを全部ぶちまけたんだ。
するとその夜、不思議に心が落ち着いていた。
あれ?なんだこりゃ?
それまでは自分が言ったことに後悔し、その苦しさにまた相手のことをエアー演説し、
その自分への後悔と相手への怒りが収まらず、ひたすら天に救いを求めてきた。
しかしあの時から、何かが変化した。
あんなに罵倒したのに、全く罪悪感がない。静けさと軽さがあった。
「あなたの思いをすべて私に渡しなさい」
コースは言う。
これが癒しなのか?
それから人が愚痴を言ったり怒ったりするとき、それをただ聞くようになった。
それまでは「いや、それはあんたも悪いでしょう~」と、さとすように言ったもんだった。
そしたら、相手もブチ切れて、大げんかになる。
私の考えとしては、
「どちらにも言い分がある。だからその相手の言い分も理解しないといけないのだ」
と話したつもりだった。
その結果大げんかが絶えなかった。
ある時、めったに愚痴らない人が、カフェで愚痴り始めた。
あれ?珍しい。。。
「長年兄弟のように思ってきた奴が、自分にあんな仕打ちをする。悲しい。」
私はそれを聞いて、そりゃあその彼の今の状況を考えれば、
そうなっても仕方がないよなあと思ったが、それを口に出すのはやめた。
今、目の前の人は自分の思いを吐露している。
それはとても大事な時間だ。
心の奥にずっと抱えていた思いを、少しづつ私の前に出してくれているんだ。
カフェの丸いテーブルの上に、その人の思いが置かれていく。
それは暗い闇の中に隠してあったものを、自ら光のもとに持ってくる行為だ。
その貴重な瞬間を私は優しい心で受け取っていた。
ただ、そうかそうかとうなずいた。何のアドバイスもせずに。
カフェを出て、その人は言った。
「そっかあ~。これを愛で見るんだな。愛で見ると、途端にあいつが愛しく見えてくる」
これが癒しなのか。。。
状況は何一つ変化していないのに、見方を変えただけで、心は愛に変わる。
歩きながら、私はその奇跡に遭遇し、心が震えた。
この世界はいつも問題解決に忙しい。
あいつがああやるから、それに対してどう対応するか、
どうやってあいつを説得するかなどという考えになる。
具体的にどう行為をするか。何を「する」か。
それはあいつと自分が分離したままで、そこに融合するものなどない。
この世界の具体的な解決方法に、つながりや喜びはないのだ。
しかし奇跡は何もしない。
苦しい思いを光のもとに持ってくるだけでいい。
それをどう解決するかは「『私』に任せなさい」という。
それで勝手に何かが解決している。
自我まみれの私たちには何もできない。
ただ「あなたの思いをすべて私に渡しなさい」というままにすればいいのだった。
唖然とした。
たったこれだけでよかったのか。。。
それは人と一緒にやるといい。
一人で日記に思いを書き連ねているより早い。
人と一緒にそれをただ見る。
それだけでその闇は浮上し、消えていくのだ。
例えば夫婦が、それぞれの仕事場で辛いことがあるとする。
二人でゆっくり話せる時間を作って、仕事場でのぐちを吐露するのだ。
相手はただその話を聞く。ウンウンとうなづく。
それだけでいい。何のアドバイスもいらない。何の解釈もいらない。
そういう時間をわざわざ作る。
それが癒しになる。
何をどうこうする必要はない。
心に溜まった隠しておいたものをただ話す。そしてただ聞く。
それがたとえお互いの文句であっても。ただ聞く。
(それはなかなか難しいけど笑)
吐露する。
ただ聞く。
癒されていく。
その関係は、自分は一人ではないことを教えてくれる。
一人で解決できるものではないことを教えてくれる。
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