人をさばいたら自分が傷つく。
だから人をさばかないように、
悪口を言わないようにしてきた。
だけどある時、もうどうにも我慢できなくて、
人を罵倒してしまった。
「謝れ!バカヤロウ!」
と、ガンガン言ってしまった。
こう見えて(どう見えてだ?)滅多に罵倒しない私。
でもたまに怒鳴ることがある。
でもそのあとはいつも後悔の時間が待っていた。
自分の罪の深さにさいなまれ続けた。
ところがその時は、何の後悔もなかった。
スッキリして心の中は静かだった。
「はて?」
静けさの中で「まあ、ええか」と放っておいた。
癒しが進んでいくと、誰かに何を言ったとしても、
罪の意識を感じなくなるという。
誰かと言っても、外にいる他人ではなく、
それは自分自身に向けている思いなのだ。
私が私に「謝れ、バカヤロウ!」と言っているだけなのだ。
そのことが知識や理屈ではなく、本当に理解し始めているのだろうか。
理解と、癒しは比例しているように思う。
癒されれば癒されるほど、理解が進む。
癒されることによって、心が柔らかくなる。
そんな出来事があってから、
どんな出来事もその背後に癒しが待っているのだと確信するようになった。
そこに癒しという目的がある。
だとするなら出来事は偶然ではなく、絶えず必然なのだ。
苦しかったら、腹がたったら、怖かったら、それを正直に出す。
その思いを封印することなく、
「出ちゃったー」で、いいのだ。
そんなことを書いているブログにも出会った。
その出たものを、罪悪感を感じることなく、自分のものとして受け取る。
たぶんここが大事。自分のものを自分の方に戻す。
目の前に現れているものは、すべて自分の思いだ。
世界は自分が信じたもので覆われている。
実のところ、自分が信じたからこの世界ができた。
それを少しづつ、受け入れられるようになってきた。
だからこそ、不安な思い、恐る思い、腹がたつ思いが出てくるということは、
自分がひた隠しにしてきたものを表に表せるチャンスなのだ。
そう。それは「現れてきてくれた」ものなのだ。
愛しさ以外の何がそこにあるのか。
恐れも、怒りも、愛の思いで受け止める。
すると対象となる誰かを変えようとも思わない。
変える必要などないとわかる。
いや、変えたいと思う思い、その思いさえも受け取る。
そうしたい自分を正直に受け止めて、変えまくってもいい。
それも赦す。
すべては、今、そこに起こっている、そのままを受け取る。
それをうわばみのように飲み込んでいくと、
その下に溶けていくような癒しが待っている。
0 件のコメント:
コメントを投稿