人が嫌なことをするのを見る時、
それは自分の鏡、自分がそうなのだと思い、
自分を責めてしまうことが多々ある。
罪悪感を持ちやすい私みたいな人は、
すぐそれを「自分がやった」と言って自分を責めてしまう道具にする。
自我はなんでも罪悪感を誘発する材料にする。
だから「投影」という言葉は恐れを生み出す。
そこで「うっ。。。」と立ち止まる。
自我の誘惑に乗るのをやめてみる。
そしたらこう囁かれるのだ。
「やめたらダメだ。
それをやっているからお前はまだマシなのだ。
やめたらとんでもない人間になるぞ!」
「奇跡のコース」はそれを聖霊と共に見て、
それを何も起こってないこととして赦す。。。。
となるのだが、
この「何も起こってないこととして」というところが、
どうしてもそうは思えなかった。
いや、起こってるし!
目の前で見えるし!
ないことにするフリはできても、
ないとはならないし!
と、苦悩してきた。
しかし「何も起こっていないこととして」とは信じられなくても
「何も起こっていないのかもしれない。。。」
と、その可能性を思ってみるのは助けになる。
そして「聖霊はこの場面をどう見ているんだろう?」
と想像してみるのも手だ。
きっと聖霊は、微笑んでいるだけだろう。
人を批判している兄弟にも、それを見ている私にも、
きっとその両方に微笑みかけてみているだけだろう。
そう想像するとき、世界を遠くに見る。
その時、ほんの少しこの横軸の世界から
縦軸に引き上げられているのかもしれない。
誰が何を言おうと、何をしていようと、
それをただ微笑みの中で見ることができる。
何の責任も取る必要がない。
私が「どう見るか」にだけ責任がある。
起こっている出来事は結果でしかなく、過去だ。
そこをいじる必要もない。
そもそもそこはいじれないし。
それをどう見るか。
誰と見るか。
それだけだったのだ。
あまりにもシンプルで愕然とする。
だがあまりにもその言葉は深かった。
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