「俺は自分の判断を絶対的なものだと信じてきた。
だけど初めてそれを疑った」
朝一番にダンナがいった。
起きた時、不意にそのことに気がついたのだという。
彼はこの所、いろんなことが自分自身に起こり、考えがどんどん変化している。
自分の身に起こったことを通して、
「これは一体俺に何を伝えようとしているんだろう?」
と、真摯に向き合っている。
昔はただ出来事を嘆くだけだった。
「なんで俺がこんな目に合わなければいけないのだ!?
俺がいったい何をしたというんだ!」
彼もまたコースの形而上学を学んで、実践へと向かっている。
あの強烈な確信を持って判断をしてきた人が、
こんな風に変化していくとはと驚いたし、また嬉しくなった。
この世界の被害者的視点から出ようとしている。
コースはまず形而上学を学ばなければ、
実践は単なる方法論になってしまうことがある。
下手すると、
「赦せばいいのね。聖霊さんにお任せすればいいのね」
と、こうしておけば大丈夫という方法論に成り下がってしまいかねない。
しかし一人一人がまったく違うカリキュラムが与えられている。
私には私のための出来事が起こり、それを通して実践していくが、
同じようにコースを学んでいるダンナには、また違うアプローチがやってくる。
それは「なんでそんなことまで知ってるの!絶対横で見てるよねえ!」
と、自分一人じゃないことを否が応でも実感する。
だから出来事が起こるたびに、
自分の中にどんな信念があるのか、
それによってどんな感情を引き起こされているのかと
じっくり見ていくチャンスが与えられていると思うことだ。
自我は出来事をいつもと同じように嘆き怒るために使い、
聖霊は出来事を別の道があるはずだと気づき、そこから解放するために使う。
「私は何が最善かを知っている。」
それが私たちの中に確固たる信念としてある。
でもその信念がゆえに、苦しんできたのだ。
それが本当に正しいのか疑い始めた時、
私たちの中の何かが解体し始める。
絵:雑誌表紙イラスト/ガンジー
4 件のコメント:
不思議だよ、良いと思ってる信念に苦しむなんて、苦しまない信念ってあるの?信念なんか持たない方が良いって事? 麻里
麻里さん
お久しぶりです。
う〜ん。難しいね。
彼が持っていた信念は自分を苦しめる信念だったんかもね。
それが愛のある信念だったら、苦しまないだろうね。
私も、ちと苦しんでます、、愛ね、愛かぁ~、愛ねぇ。
勉強します! 麻里
そっかあ〜。
もし嫌いな人がいたら、
その人に心で愛を送ってあげてください。
白い百合の花でもいい。
麻里さんに嫌なことする人は、
愛を求めて叫んでいるからです。
みんな、愛が欲しいのです。
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