クライアントに気に入られることは大事だ。
クライアントに気に入られてこそ、自分の価値を認められる。
私はこうやって、必死でクライアントに気に入られるように頑張ってきた。
(つもり。気に入られてきたかどーかは不明だ)
この関係は密かに緊張感を生む。
力があるものに、力のないものがご機嫌伺いをする構造になっている。
地主に百姓が仕事をもらう、お金をもらうような構図。
「頑張ってこんな絵を描きました!」と、お見せしても
「ん。気に入らない。却下。君、退場!」
と言われる立場。
自分の価値が、そのクライアント次第で上がったり下がったりする。
つまり私にとってクライアントとは、
「ここにいていーの?私」とお伺いを立て、
「よし!いていい!」とか「だめ!退場!」
と言われる裁判官に、いや、神にしていたのだ!
神に否定されないために、そりゃー頑張るよね、私。
生きるか死ぬか。路頭に迷うか否か。の対決だもんね。
ん?でも待てよ。
「だめ、退場!」と言われても、死んでないぞ。
路頭にも迷ってないぞ。
そこであらためてクライアント神を見る。
そもそも裁く神ってなんなんよ。
本物の神は裁かない。愛でしかない。
ってことはこれ偽物の神じゃーん。
私が作り上げた自我の神。
自我の神は裁きまくる。
人様の道を外れたら、裁く。
人様の道を外れなくても裁く。
有罪判決を下す!
(実はそれしかしない。有罪にしか興味がない)
私はクライアントさんを自我の神に仕立てていたんだ。
だから
「お代官さま~~~。
後生でごぜえますだ~~~。
おらを許しておくんなませ~~~~」
と、すがりついて、自分の価値を認めてもらおうと必死だったんだ。
私は自分を裁きたがっていた。
それは自分に罪があると信じていたから。
でもそれこそが自我の罠。
こうやって対立するものを与える。
力あるもの、ないもの、
お金があるもの、ないもの、
ゲットすること、されること、
価値があるもの、ないもの、。。。
二極の対立を常に行うように仕向けて、
ぐるぐるとその関係が回り続けるように仕組んでいる。
タオの陰陽の図のように。
銀河系の二極の回転のように。
DNAの螺旋のように。
この世界が存在すると思わせるために。
クライアントは、自我の神ではなく、私自身だった。
私が私をさばいている。
その理由は、私には罪があるから、
罰を与えるために、もう一人の裁く神/私を作り、
時と場所に応じてアメとムチを使い続けていたんだ。
だがそれが自我の仕組んだことだったと明確になってきた今、
この考えを採用することは、もう無意味だ。
クライアントは私だった。
それは自我の私ではなく、本当の私。神の子。
神の子が神の子は裁かない。
私とクライアントは同じ心。
分れていると思っていたから、裁く裁かれるがある。
同じであるとき、そこにさばきはあるか?
それは愛であるだけなのだ。
自我を選べば、二つに分かれ、裁き裁かれる。
正しい心、神の子、真の自己を選ぶ時、
二つは一つになり、そこに光が思い出される。
喜びが現れてくる。
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