2023年9月17日日曜日

一瞬心が通う

 


「無茶苦茶じゃないか!あれもこれも、全然違う!無茶苦茶でいいのか?なら無茶苦茶なままで出せばいいじゃないか!俺はもう知らん!」


電話の向こうで長老は怒鳴った。

町会の歴史の聞き取りをしてまとめた原稿のチェックをお願いしたが、それが彼の感想だった。


恐れていたことが起こった。


人から聞いたことがいつも正しいわけじゃない。聞けば聞くほど意見が分かれて来た。私は外から来た人間で、誰の意見が正しいのか、どれが正しいのかわからない。彼の剣幕にも私は傷ついた。


「私も人から聞いた話をまとめたものですから、正しいのかどうかわかりません。間違っているのならご立腹なのはわかります。明日伺いますので、どこがどう間違っているのか、詳しくお聞かせください」


それだけではなかった。他の長老たちからも、あることに関する対立した意見を聞くことになった。

それまで穏やかだった長老が一瞬殺気立った空気を出した。


もうここらで終わりにしたほうがいいのかもしれない。

原稿ができても、これからレイアウト作業が待っている。文字組みや写真やイラストを組み合わせての大変な作業だ。そして印刷となれば費用もかかる。でもその一番だいじな原稿で。。。いったいみんなが納得のいく原稿など作れるのだろうか。

今ならまだ間に合う。。。



いつでもやめていい覚悟で翌日長老の家を訪ねた。

畑作業の後だろうか。風呂上がりのさっぱりした顔で、上半身裸で現れた。最近倉庫の奥に見つけたという古い梅酒を出してくれる。


「昨日はちょっと言い過ぎた」

恥ずかしそうに微笑む。

「いえ。お気持ちはわかります。私も何もわからないので、教えてください」


Vネックのシャツを着ようとするが、汗で張り付いてなかなか着れない。私は手を回して彼の背中に巻きついていたシャツをほぐした。

「ありがとう」

その時、彼を昔から知っている親戚のように感じた。一瞬何かが通った。


そのあとはどこがどう違うのか冷静に話してくれ、和やかな時間が過ぎた。






この世界は結果がすべてという。


例えばこの例を挙げると、印刷物ができて結果が現れたという。

そしてその結果を、いいとか悪いとか言って評価をする。いいと言われて喜び、悪いと言われて悲しむ。

それがこの世界。

そうであるならば、今ここで町会の歴史の作業をやめてしまうことは、惨敗ということになる。挫折というべきか。


だけど私はそうは思わなくなった。

人に会い、人に聞き、質問し、意見が違い、怒られ、傷つき、考えを改め、どう見ればいいか見方を変えて行くチャンスが与えられている。

その時間が一番大切なのではないかと思い始めた。


カタチは結果ではなく、手段なのだ。

町会の歴史をまとめるという手段を通して、自分が何を信じていたのか、何を恐れているのか、その信念があるからこそ、自分が苦しみ、その信念は手放せることを知る。


それは全ての行為に言えることなのだろう。洗濯物をするという行為を通して、自分が何を信じて、何を恐れているかを認識する。


だからこの編纂を続けていこうが、ここで終わりにしようが、それは問題ではない。

この一瞬一瞬の一挙手一投足に意識を向け、自分の恐れを赦し、兄弟の恐れを赦し、受け入れられるか。

私に求められていることはそれだけだ。

カタチの向こう側にあるものだけを掴む。すると目の前のカタチにさえ、愛の反映がみえる。

カタチはどんどん優しくなっていく。


帰り、長老から畑で採ったモロヘイヤと茗荷をもらった。夜それで酢の物を作る。


ネバネバつるつるの、喜びがそこにあった。





絵「COOPけんぽ」表紙イラスト/山辺の道





2023年9月8日金曜日

カタチのないところ


 

ずっとカタチに囚われてきた。


カタチにこだわってきた、ではなく、囚われてきた私がいた。


それはイラストレーターというカタチを作り上げる事をなりわいとしていたからだろうか。

一瞬のうちに「あるべきカタチ」というものを頭の中に作り上げるワザを身につけてしまったからだろうか。


とにかく私は知らない間に、「一瞬のうちにカタチ」を見る(イメージする)癖をつけてしまった。


それは絵だけではなく、人としてこうあるべきカタチ、人に頼まれたらこうやるべきカタチ、人に接するにはこうするべきカタチ、人間としてこうあるべきカタチ。。。。。あらゆることに形を見ていた。


ある時それがどうしようもなく苦しくなった。

ある晩、「カタチ」が私を襲ってきた。カタチ、カタチ、カタチ、カタチ、、、、、

頭の中に怒涛のように、世界のあらゆる形象や、ものの考えや、世界の常識や、歴史や、人々の心や、、、とんでもない量の「カタチ」が束になって私を襲った。

それは振り払うことも否定することもできない。なかったことにもできない。


布団の中でこれ以上縮こまれないほどにカッチカチに丸くなって、この暴風雨が過ぎ去るのを心底願った。しかし一向に過ぎ去らないばかりかますます激しくなる。この苦しみの中で私はあることを思い出した。


それはカタチのないところだった。


具象の世界に押しつぶされそうになった私の唯一の逃げ道は、完全なる抽象、全くカタチのないところだった。

左上におぼろげなく見えてきた「カタチのない」ところに私は心を一点集中させていった。

気がつけば朝になっていた。


そんな経験を通して、カタチがないことは、私に安堵をもたらすことを知り始める。



カタチは、そのカタチにならない限り、裁くことをする。


こうならなければいけないのに、そうなれない自分がいる!

こう描かなければいけないのに、そう描けない私がいる!

そういって自分を責めるのだ。


この形象の世界は、常に比較を生む。

こうあるべきは、こうならない、こうなれない自分や兄弟を見つけ、それで責める。

戦い、葛藤、攻撃、防衛が生まれる。


こうなれない自分にエンドレスの苦しみを生み出す。





今、町会の年表作りをやっている。

間違ったことを書いてはいけない、間違った数字を書いてはいけない、間違った名前を書いてはいけない、間違った言い回しをしてはいけない、間違った、間違った、間違った。。。。


真実とは一つ。正しいとはこういうことで、それ以外は全部間違い。

プレッシャーに押しつぶされて身動きが取れなくなっていた。


そのうち私はこう考えるようになる。

「こうであるべきカタチ」でない限り、私は村八分にされる。

この町会で生きていけない。追放の刑だ!

なんという仕事を受け持ってしまったのだろう。。。。


苦しくなった時、あのカタチがないところに心を向ける。すると心が休まる。

そこはなんの比較も、なんの責める道具もない。

そこは誰が何をやったとか、誰に何をされたとか、そんなもののないところ。攻撃も防衛もないところ。

完全に赦されたところ。

優しさに包まれたところ。

カタチの向こうにあるものは、カタチが消えた世界だった。




この、今歩いているこの道。

何百年もの間人々が往来していた道。。。いろんなドラマがあったろう。いろんな愛もあったろう。

それを恐れで見るか、愛で見るか。カタチで見るか、カタチなきものとしてみるか。


恐れの目で見るなら、私は追放の刑に処されるだろう。

なぜなら私はこの村の歴史を全く知らないのだから。


しかし愛の目で見るなら、それは光とともに消えていくだろう。

深い安堵とともに。



今、町会についてお話ししてくれた方々に、

原稿のチェックをお願いしている。


恐れの思いでそれを渡すなら、私は裁かれるだろう。

しかし愛の思いでそれを渡すなら、どうなるのだろう。


私は確かめたい。




2023年9月6日水曜日

愛が、すべてさ〜♪


 


愛。

最近これが私のキーワードだー。


友達がある日、仕事の帰りバスに乗っている時、

いきなり家の近くまでバスに乗って帰れることに心底ありがたみを感じ、

泣きがとまらなくなったそうだ。

そして泣きながら運転手さんに「ありがとうございます」と言って降りたんだって。


何がどうしたわけでもないのに胸のあたりが感動みたいな震えがきたんだそう。

なんだったんだ?こんなことは今までなかったと。


そんな話聞いちゃうと、こっちまでうるうるしてしまうじゃないか。


その夜、思った。

それはまさに聖霊が持っている視点なんだなあ~って。


彼女はきっと愛を見つけたんだね。

運転手さんの愛、バス会社の愛、人を家まで送り届けるというバスの運行を考えてくれた愛、バスという乗り物を考えついた人の愛、、、、。

あらゆる愛に支えられた自分が今いるんだという、全てが愛の反映に見えた瞬間。


と、書いては見たものの。

本当はそんな風に言葉では表しきれない「何か」を彼女は受け取ったんだな。




そう。物理的な形象の中でしか生きてないように見える私たち。

だけど本当はそんな形なんかよりはるかにデカイものを実は受け取っている。


一つの形ができるまでに、たくさんの愛がそこに入っている。

椅子一つとっても、人を楽チンに居心地よくさせる「思い」が入ってるんだ。

その「思い」を受け取る力が私たちにはある。その「思い」が「愛」だ。

その思いを受け取るアンテナを広げていきたい。


昨日、久々に「フィールド・オブ・ドリームス」を見た。

常識的に考えたら、まったく意味もないことをやり始める主人公。

理屈に合わないことなのに、「声」に導かれてどんどん進んでいく。

周りもそこに巻き込まれていく。はたから見たら、とっても変なことなのに。

そうしたら、それまで常識の目で生きていた人が、今まで見えていなかったものを見始める。

そして愛が広がっていくんだ。



今まで見えなかったものが見え始める。それは形じゃなかった。

形がないのに、完全にそこにある。それがどんどん存在感を増し始めるんだ。

そっちがリアルだった!それだけが実在してたんだ!

なんだなんだ。見るとこ、ここだったんだ。




人々の行動を裁きの目で見るのか。愛の目で見るのか。

どちらで見てもいい。私たちには選択の自由がある。


しかし裁きの目で見ることは、自分も裁いていることになる。

その目は恐れと苦しみと悲しみしか生まない。


愛の目で見ようとすること。

それは兄弟を裁かないばかりか、

自分も裁かなくなる。

そこに平安がある。



先日、モスバーガーのテイクアウトを電話で頼んだ。

取りに行った時、

「お電話ありがとうございます」と言って小さな紙包みが渡された。

電話代金10円が入っていた。可愛い玉ねぎの絵が描かれた小さな紙包み。


企業戦略か。。。なーんて思うのも自由。

でも心がウキッとなった。


「また頼もう」と思った。






絵:ミステリー表紙イラスト


2023年9月2日土曜日

この世界は私の考え


 

「この世界は私の考えが作り上げた」


夜中その言葉を聞いた時、ドキーッとした。

だってその言葉は、「100%君の考えが現れている」と教えていたのだから。


いやいや、そりゃ、コースの言葉では知っているよ。知識では知っている。

だけどそうは言っても、せめて7割だろ?後の3割は、なんか、、、集合意識とかなんとかが作って、その残りを私の考えがちょろっと、、、でしょ?(7割って自分で言っといて、ちょろっとと言うあざとさ笑)

まさか、私が100%だなんて、そんな、めっそうもない。。。。


謙遜なのか、怖気付いているのか、どっちかわからない。ふにゃふにゃになる(笑)。



レッスン132


4段落目

『世界それ自体は無である。あなたの心が世界に意味を与える。あなたがそこに見るものはあなた自身の願望である。自分の願うものを眺めて、それらが実在すると思うことができるように、実演されたものである』


5段落目

『あなたの願望から離れて世界は存在しない。そしてこのことの中にあなたの究極の解放がある。自分が何を見たいかについて自分の心を変えれば、それにつれて世界の一切が必ず変化する。想念はその源を離れない』


グーの音も出ない。まさにその通りだ。自分の考えだ。こんなこと願ってもいない!って思うけど、正直に見れば見るほど、自分が望んでいるものが「誰かの罪」だったり、「自分の罪」だったりしていることに気がつく。


6段落目

『傲慢なのは、あなたが自分と切り離されている世界に生まれてきたと論じることであり、その世界は自分が考えることに左右されず、自分が世界をどういうものと考えようと、それと世界は別物だ、と考えることである。世界は存在しない!これがこのコースが教えようとしている中心概念である』


8段落目

『もし世界が本当にあなた自身の想像の産物であるのなら、あなたは世界にこうした外観を与えた全ての考えを変えるだけで、自分がこれまで「世界」だと思ってきた一切から、世界を解放することができる』



せ、、、世界は私の想像の産物なのだ。。。。


それって全責任が自分にあるってことであり、

そしてまた、世界の統治者は私だってことになる。。。


山の麓に住む62歳のばあさんは、ひとりビビる。





絵:ミステリー表紙イラスト