愛。
最近これが私のキーワードだー。
友達がある日、仕事の帰りバスに乗っている時、
いきなり家の近くまでバスに乗って帰れることに心底ありがたみを感じ、
泣きがとまらなくなったそうだ。
そして泣きながら運転手さんに「ありがとうございます」と言って降りたんだって。
何がどうしたわけでもないのに胸のあたりが感動みたいな震えがきたんだそう。
なんだったんだ?こんなことは今までなかったと。
そんな話聞いちゃうと、こっちまでうるうるしてしまうじゃないか。
その夜、思った。
それはまさに聖霊が持っている視点なんだなあ~って。
彼女はきっと愛を見つけたんだね。
運転手さんの愛、バス会社の愛、人を家まで送り届けるというバスの運行を考えてくれた愛、バスという乗り物を考えついた人の愛、、、、。
あらゆる愛に支えられた自分が今いるんだという、全てが愛の反映に見えた瞬間。
と、書いては見たものの。
本当はそんな風に言葉では表しきれない「何か」を彼女は受け取ったんだな。
そう。物理的な形象の中でしか生きてないように見える私たち。
だけど本当はそんな形なんかよりはるかにデカイものを実は受け取っている。
一つの形ができるまでに、たくさんの愛がそこに入っている。
椅子一つとっても、人を楽チンに居心地よくさせる「思い」が入ってるんだ。
その「思い」を受け取る力が私たちにはある。その「思い」が「愛」だ。
その思いを受け取るアンテナを広げていきたい。
昨日、久々に「フィールド・オブ・ドリームス」を見た。
常識的に考えたら、まったく意味もないことをやり始める主人公。
理屈に合わないことなのに、「声」に導かれてどんどん進んでいく。
周りもそこに巻き込まれていく。はたから見たら、とっても変なことなのに。
そうしたら、それまで常識の目で生きていた人が、今まで見えていなかったものを見始める。
そして愛が広がっていくんだ。
今まで見えなかったものが見え始める。それは形じゃなかった。
形がないのに、完全にそこにある。それがどんどん存在感を増し始めるんだ。
そっちがリアルだった!それだけが実在してたんだ!
なんだなんだ。見るとこ、ここだったんだ。
人々の行動を裁きの目で見るのか。愛の目で見るのか。
どちらで見てもいい。私たちには選択の自由がある。
しかし裁きの目で見ることは、自分も裁いていることになる。
その目は恐れと苦しみと悲しみしか生まない。
愛の目で見ようとすること。
それは兄弟を裁かないばかりか、
自分も裁かなくなる。
そこに平安がある。
先日、モスバーガーのテイクアウトを電話で頼んだ。
取りに行った時、
「お電話ありがとうございます」と言って小さな紙包みが渡された。
電話代金10円が入っていた。可愛い玉ねぎの絵が描かれた小さな紙包み。
企業戦略か。。。なーんて思うのも自由。
でも心がウキッとなった。
「また頼もう」と思った。
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