ある時は、自分にも人にもなんの罪も見なくて、軽い気分になったり。
ある時は、自分に罪を見て、重い気分になったり。
そんな行ったり来たりが続く日々の中、
昨日は重い気分の日だった。
その数日前までは、とても明るく軽い気分だったのに。
理由はわかっている。その日は何もできなかったから。
絵がうまくかけなくて、気分を変えるためにネフリを見る。
ずっと見続けちゃって罪悪感に陥る(笑)。
私は「何もしていない自分」「何も建設的なことができない自分」に対して罪を見ている。
ただそこにいるだけで「あなたは価値がある」と言われても、正直言ってそうは信じられない。
やっぱ、なんかしてお金を稼ぐようなことをして、
やっぱ、いい作品作るようなことをして、
掃除して、いいことして、
それで「お前はここにいていい」と言われたがっている。
本当に「何もしないでいる自分」にオッケーが出せないのだ。心底貧乏性だ。
ってか、本当に何もしないで平気でいられる人、いるんだろうか。
仕事の合間にちょっと休むだけなら罪悪感は感じないだろうけど、
何日も、何週間も、何年も、何もしないで、ただその中にいることが全く気にならず、
むしろ幸福感の中にいることができる人、いるんだろうか。
ちなみに、一体誰にオッケー出されたがっているのか。神?
ところが、神は私が何をしようと、何もしなくても、
「あなたは最高だ!その存在自体が完璧で美しい!」と言ってくれる。
じゃあ、誰が?
自分だ。。。
自分が自分に延々とダメ出しを出し続けているのだ。
夜、怖がりまくっている自分に気づいて目がさめる。
体の不調、痛さ、老いの影、、、、
これからどうなっていくのだ?このままだんだん衰えて、動けなるのか?
自分の動きのいちいちにダメ出しを続けている自分に気づく。
延々と恐れ続けている自分。。。。
起き上がって座り、自分の内面と話す。
怖がっている。。。
私は今、怖がっている。。。。
私は今、怖がって、、、、
怖がっ、、、り、、?
え?怖がりたい?
そして気づく。
私は怖がりたがっているのだ!
なんで?
ふと、鞭打たれる人が浮かぶ。
鞭打たれるとき、人は怖がる。
イエスはどうだったのか。
磔にされたとき、彼は怖がらなかった。刺されるときさえも彼には恐怖がなかった。
なぜか。
彼には罪の意識がなかったからだ。。!
自分に罪がないと知っている人は、怖がらない。
反対に、自分に罪があると信じている人は、怖がる。
つまり、私が怖がりたがっているのは、自分には罪があると信じているからだ。
「怖がりたがる」というのはどういうことだろう。
怖がる対象としては、体、お金、仕事、人間関係、自分の未来、、、。
「怖がる」ということは、実は自分に罰を与えているのだ。
「怖がる」=「罰を受けている」
この場合、鞭を打たれているわけではないけれど、
妄想によって怖がることで、その罰を受けているとバーチャルしている(笑)
つまり私には罪があるから、怖がるという罰を与えることによって、
ちょっとはその罪が軽減される、、、
などと、こざかしーことを目論んでいるのだ。
(誰に?もちろん架空の、自分が考えついた神に対してだ!)
怖がりたがるとは、罰を受けたがっているとも言える。
ところで、ここで思う。
怖がりたがるとは、怖がっていない自分もいるということじゃないか?
怖がりたがるとは、もともと怖がっていない自分がいるから、「怖がりたがる」のではないか。
さらに、もしもともとこわがるのが私たちの本性ならば、いちいち怖がりたがる必要もない(笑)。
ということはよ。
その前提にあるのは、本当は私たちは怖がっていないということになるんじゃないか?
そしてそれこそが私たちの本性。キリストの心。
コースがいう「私たちに罪がないことは神によって保証されている」ということそのもの。
怖がりたがる、罪を見たがる、罰を受けたがる、、、ということは、
その大大大前提に、
「私たちには罪はない」ということに、論理的に帰結してしまった(笑)。
絵:コージーミステリー表紙イラスト
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