2023年9月24日日曜日

こわがりたがっている!?


 

ある時は、自分にも人にもなんの罪も見なくて、軽い気分になったり。

ある時は、自分に罪を見て、重い気分になったり。


そんな行ったり来たりが続く日々の中、

昨日は重い気分の日だった。

その数日前までは、とても明るく軽い気分だったのに。


理由はわかっている。その日は何もできなかったから。

絵がうまくかけなくて、気分を変えるためにネフリを見る。

ずっと見続けちゃって罪悪感に陥る(笑)。


私は「何もしていない自分」「何も建設的なことができない自分」に対して罪を見ている。


ただそこにいるだけで「あなたは価値がある」と言われても、正直言ってそうは信じられない。

やっぱ、なんかしてお金を稼ぐようなことをして、

やっぱ、いい作品作るようなことをして、

掃除して、いいことして、

それで「お前はここにいていい」と言われたがっている。


本当に「何もしないでいる自分」にオッケーが出せないのだ。心底貧乏性だ。


ってか、本当に何もしないで平気でいられる人、いるんだろうか。

仕事の合間にちょっと休むだけなら罪悪感は感じないだろうけど、

何日も、何週間も、何年も、何もしないで、ただその中にいることが全く気にならず、

むしろ幸福感の中にいることができる人、いるんだろうか。



ちなみに、一体誰にオッケー出されたがっているのか。神?


ところが、神は私が何をしようと、何もしなくても、

「あなたは最高だ!その存在自体が完璧で美しい!」と言ってくれる。


じゃあ、誰が?

自分だ。。。


自分が自分に延々とダメ出しを出し続けているのだ。



夜、怖がりまくっている自分に気づいて目がさめる。

体の不調、痛さ、老いの影、、、、

これからどうなっていくのだ?このままだんだん衰えて、動けなるのか?


自分の動きのいちいちにダメ出しを続けている自分に気づく。

延々と恐れ続けている自分。。。。



起き上がって座り、自分の内面と話す。


怖がっている。。。

私は今、怖がっている。。。。

私は今、怖がって、、、、

怖がっ、、、り、、?

え?怖がりたい?


そして気づく。


私は怖がりたがっているのだ!


なんで?


ふと、鞭打たれる人が浮かぶ。

鞭打たれるとき、人は怖がる。


イエスはどうだったのか。

磔にされたとき、彼は怖がらなかった。刺されるときさえも彼には恐怖がなかった。

なぜか。

彼には罪の意識がなかったからだ。。!


自分に罪がないと知っている人は、怖がらない。

反対に、自分に罪があると信じている人は、怖がる。



つまり、私が怖がりたがっているのは、自分には罪があると信じているからだ。



「怖がりたがる」というのはどういうことだろう。

怖がる対象としては、体、お金、仕事、人間関係、自分の未来、、、。


「怖がる」ということは、実は自分に罰を与えているのだ。


「怖がる」=「罰を受けている」

この場合、鞭を打たれているわけではないけれど、

妄想によって怖がることで、その罰を受けているとバーチャルしている(笑)



つまり私には罪があるから、怖がるという罰を与えることによって、

ちょっとはその罪が軽減される、、、

などと、こざかしーことを目論んでいるのだ。


(誰に?もちろん架空の、自分が考えついた神に対してだ!)


怖がりたがるとは、罰を受けたがっているとも言える。



ところで、ここで思う。

怖がりたがるとは、怖がっていない自分もいるということじゃないか?

怖がりたがるとは、もともと怖がっていない自分がいるから、「怖がりたがる」のではないか。


さらに、もしもともとこわがるのが私たちの本性ならば、いちいち怖がりたがる必要もない(笑)。



ということはよ。

その前提にあるのは、本当は私たちは怖がっていないということになるんじゃないか?

そしてそれこそが私たちの本性。キリストの心。


コースがいう「私たちに罪がないことは神によって保証されている」ということそのもの。


怖がりたがる、罪を見たがる、罰を受けたがる、、、ということは、


その大大大前提に、

「私たちには罪はない」ということに、論理的に帰結してしまった(笑)。





絵:コージーミステリー表紙イラスト



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