ずっとカタチに囚われてきた。
カタチにこだわってきた、ではなく、囚われてきた私がいた。
それはイラストレーターというカタチを作り上げる事をなりわいとしていたからだろうか。
一瞬のうちに「あるべきカタチ」というものを頭の中に作り上げるワザを身につけてしまったからだろうか。
とにかく私は知らない間に、「一瞬のうちにカタチ」を見る(イメージする)癖をつけてしまった。
それは絵だけではなく、人としてこうあるべきカタチ、人に頼まれたらこうやるべきカタチ、人に接するにはこうするべきカタチ、人間としてこうあるべきカタチ。。。。。あらゆることに形を見ていた。
ある時それがどうしようもなく苦しくなった。
ある晩、「カタチ」が私を襲ってきた。カタチ、カタチ、カタチ、カタチ、、、、、
頭の中に怒涛のように、世界のあらゆる形象や、ものの考えや、世界の常識や、歴史や、人々の心や、、、とんでもない量の「カタチ」が束になって私を襲った。
それは振り払うことも否定することもできない。なかったことにもできない。
布団の中でこれ以上縮こまれないほどにカッチカチに丸くなって、この暴風雨が過ぎ去るのを心底願った。しかし一向に過ぎ去らないばかりかますます激しくなる。この苦しみの中で私はあることを思い出した。
それはカタチのないところだった。
具象の世界に押しつぶされそうになった私の唯一の逃げ道は、完全なる抽象、全くカタチのないところだった。
左上におぼろげなく見えてきた「カタチのない」ところに私は心を一点集中させていった。
気がつけば朝になっていた。
そんな経験を通して、カタチがないことは、私に安堵をもたらすことを知り始める。
カタチは、そのカタチにならない限り、裁くことをする。
こうならなければいけないのに、そうなれない自分がいる!
こう描かなければいけないのに、そう描けない私がいる!
そういって自分を責めるのだ。
この形象の世界は、常に比較を生む。
こうあるべきは、こうならない、こうなれない自分や兄弟を見つけ、それで責める。
戦い、葛藤、攻撃、防衛が生まれる。
こうなれない自分にエンドレスの苦しみを生み出す。
今、町会の年表作りをやっている。
間違ったことを書いてはいけない、間違った数字を書いてはいけない、間違った名前を書いてはいけない、間違った言い回しをしてはいけない、間違った、間違った、間違った。。。。
真実とは一つ。正しいとはこういうことで、それ以外は全部間違い。
プレッシャーに押しつぶされて身動きが取れなくなっていた。
そのうち私はこう考えるようになる。
「こうであるべきカタチ」でない限り、私は村八分にされる。
この町会で生きていけない。追放の刑だ!
なんという仕事を受け持ってしまったのだろう。。。。
苦しくなった時、あのカタチがないところに心を向ける。すると心が休まる。
そこはなんの比較も、なんの責める道具もない。
そこは誰が何をやったとか、誰に何をされたとか、そんなもののないところ。攻撃も防衛もないところ。
完全に赦されたところ。
優しさに包まれたところ。
カタチの向こうにあるものは、カタチが消えた世界だった。
この、今歩いているこの道。
何百年もの間人々が往来していた道。。。いろんなドラマがあったろう。いろんな愛もあったろう。
それを恐れで見るか、愛で見るか。カタチで見るか、カタチなきものとしてみるか。
恐れの目で見るなら、私は追放の刑に処されるだろう。
なぜなら私はこの村の歴史を全く知らないのだから。
しかし愛の目で見るなら、それは光とともに消えていくだろう。
深い安堵とともに。
今、町会についてお話ししてくれた方々に、
原稿のチェックをお願いしている。
恐れの思いでそれを渡すなら、私は裁かれるだろう。
しかし愛の思いでそれを渡すなら、どうなるのだろう。
私は確かめたい。
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