私たちの無意識の中に、罪というものがある。
それは隠れ潜んでいて、表に現れてこないように、ひた隠しにされている。
苦しみは、その罪がゆえに与えられた罰だ。
罪と罰はくっついている。
苦あれば楽あり、苦労は買ってでもしろとは、
美しい教訓とされているが、
その考えの下に、罰を受ければ、刑が軽くなるという思いをはらんでいる。
だから私たちは無意識に苦しみを選んでいる。
幸せすぎて怖い。という思いも、
幸せで有頂天になったら、いつかバチが当たる、
とんでもないしっぺ返しに会うかもしれない!
という恐れが、そう言わせている。
つまり私たちは
「幸せになるにはほどほどに。苦労は買ってでもしろ」
という教訓の中で生きていると言えるだろう。
つまんねえ~~~(笑)
でも私はずっとそう信じてきた。
苦労しさえすれば、きっといつか良いことがやってくる!と。
そしてめちゃ苦労して、ほんのちょっぴりご褒美がもらえて、有頂天になって、
その直後「あ!ヤバイ!このぐらいにしておこう。そうじゃないと、しっぺ返しに会う~」
といって、またちっこくなって、自ら苦労を買いに走るのだった。(コンビニじゃねえし)
さて。この苦労という刑。
なぜ必要かといえば、罪を犯したなら、刑という罰が与えられるからだ。
一体何の罪が侵されたのかはわからないが、私たちは罪がある前提になっているので、
苦労という名の罰を受けなければならない。
刑を終えると、晴れて出所できるはず、、、なんだけど、
どうもそうでもない。
晴れ晴れした気分になるのは一瞬で、また次の刑がやってくる。
え?私、一体いつ罪を犯した?
人は何か嫌なことが起こった時、
「え?私なにやった?なんかとんでもないことした?
あれかな?ああ、あれかもしんない!やっば~~~~~。あんなことしなきゃよかった!」と、
自分の罪をあれこれ探すんではなかろうか。(え?私だけ?)
つまり罰が下るのは、罪を犯したからだと思っているので、あれこれ考えを巡らす。
そして程よく罪が暴かれたところで(笑)、苦労という刑を粛々と受け入れるのだ。
しかーし!
よく考えたら、この刑、一体いつ終わるのだろう?
すべての罪が晴れて出所できるのは、この肉体を離れた時?
ということは、この肉体自体が、牢獄っていうことになる。
私は知らないうちに罪を犯し、そして苦労という刑を受け続ける人生。。。
ほんまかいなー!
おかしくね?
なんかおかしいよ。
そもそもその罪をそそのかすのは誰だ?
苦労をしろと促してくる、そのアイディアの元はなんだ?
声だ。そのそそのかす奴は頭の中にいる。
「ああなったらどうする?」
「それでいいのか?本当に。。。。」
「ああ、おしまいだ。なんてえことをしでかすんだ、お前!」
それを聞いた私たちは、
「ひっええええええええ~~~~~~~っ!
どうしよう、どうしよう、ああ、どうしたらいいの、、、?」
と、その声に助けを求める。
すると、
「それはだなあ~。。。」
と、その声は私たちに、さも親切心で言っているかのように、案を教える。
その答えは、最初はいい感じだけど、よくよく聞いていると最後は、
「お前が苦労して死ねばいいだけさ」というところに落ち着く。
それ、本当に私たちの味方なんだろうか。
その声を疑ってみることはできないだろうか。
どう見ても破壊的な方向にしか持っていかない、その大きな声を。
お前には罪があると言い続け、
「あ!今罪を犯したな!
ではお前に刑を言い渡す!苦労100回!」
と。
これ、きりがない。
もう苦労は買わなくていい。
幸せは思う存分味わえばいい。
そして苦労しろと促してくるその声を疑い、
その声を赦し、
それをそっくりそのまま
「もうこんな考えいりません」と聖霊に渡し、
訂正してもらって、ほっこりしよう。
コンビニで苦労は買わなくていい。
コーヒーとドーナツを買おう。
絵:「こっちだよ」
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