2週間の展覧会が無事終わった。
たくさんの人たちが見にきてくれた。
みんな、寒い中、忙しい中、来てくれて本当にありがとう。
いつもはギャラリースペースという、真っ白いキューブの中に展示される私の作品。
それが日本家屋の床の間や小窓や廊下など、バックが白くないところにたくさん配置された。
その意外な空間もあいまってか、人々が作品に出くわした時の驚きを何度も目撃した。
そして私は別のことに気がつき始めた。
作品と出会った時の、人々の感動を見たのだ。
「いったいこれはなんだ?」
頭でどう解釈していいかわからない。
何でできてる?どうやって作った?
心の震えを、頭でなんとか構築し直そうとする。
頭で納得しようと躍起になる。
しかし頭は追いつかない。
水彩?和紙?え?どうやって?
頭は素材や材料に向かう。
何を使っているのか、どうやって作っているのか。
しかし頭が感動したのではないのだ。
心が感動したのだ。
心が感動したのを頭で必死で納得しようとしている。
心は感動し、頭は動揺している(笑)。
感動はやがて喜びに変わる。
絵と人々を横から見ていると、そこに見えない交流があった。
何かに触れている。何かを思い出している。
そうか。これなんだ。うわ。そうだ。これだこれだ。
そう心が言っているのが聞こえてくる。
絵と自分、という分離がなくなっている。
絵の中に自分自身を覗き込んでいる。
その時、本来の私たちに触れている。
実在する喜びに触れている姿を
私は、今、立ち会わせてもらっている。。!
私はその驚きと尊さに感動していた。
自分の絵に感動してくれている、という思いはなかった。
絵はただのきっかけに過ぎない。
私は人々の喜びを思い出す瞬間に立ち会えたのだ。
例えば、サッカーの試合で一丸となる瞬間、
コンサート会場でみんなが一つになって喜んでいる瞬間。
絵はみんなをわーっと喜ばせることはできないが、
一対一で向かい合う、無限の美しさと広がりと喜びを分かち合っていた。
それはとても尊い、とても神聖な姿だった。。。
ああ、神様。。。
私はことの重大さに気がついた。
形の比重から心の比重へとだんだん移行するうちに、
心が持つ力の大きさに気づく。
形はただの結果でしかないことを知る。
結果などいじる必要がない。
原因だけを見る。
それはたった二つの選択だけがある。
自我か、聖霊か。
恐れか、喜びか。
喜びが創造する。
それが波紋のように広がっていく。
私たちは、心だ。
絵:「はっとする」
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