「小忙しくしていなさい」
母の言葉が印象に残っている。
ぼーっとしているよりも、
なんとなく忙しく見せておく方がいいという母の意見だ。
今思えば、彼女の防衛の意識だった。
ゆったりしているよりも、忙しそうに振舞っている方が、
人目にいいというわけである。
人目を気にするというのは、母のようにお嬢様で育った人にとって、
生きていく上でとても重要なことだったのだ。
「お金持ちの家ほど、不幸なことが多い」
ある友達から聞いた話だ。
なるほど、そういえばそんな気がしないでもない。
でもこれは私の「やんごとなき家系」ドラマの見過ぎか?(笑)
不幸であることは、防衛の別な形とも言える。
「あそこのお家、あんなことがあったのよ。お気の毒~~~」
そう思わせておくことは、お金持ちに対するやっかみや嫉妬への無言の防衛になる。
母の「小忙しく説」も、
「悠長なことやってんじゃないわよ。」という陰口を避けるための防衛だ。
私たちは無意識に、誰かに陰口を叩かれないように、ありとあらゆる防衛策を練る。
うちの町内会でもオヤジどもがよくいう言葉。
「あとで何言われるかわからない」
「言われない」ために、あらゆる防衛策を練るのだ。
それがたとえ不幸という形であっても。
「小忙しくする」犠牲という手段を取っても。
つまり昨日の話の続き。
不幸や苦労することは、刑に服するということであり、
同時に周りからの攻撃をも避けられる。
この二つの利点は大きい。
刑に服せば、私の罪は軽減され、しかも周りからの防衛もできる。
一石二鳥だ!
と、思っている。
ってか、信じている。
ってか、それはいつまで続くの?って話だ。
苦労(刑)はいくら買っても減らない。
防衛するのは、攻撃する人がいると信じているから防衛がある。
でもそもそも攻撃する人はいるのか。
オヤジは「こう言われたもん!」という。
しかしはたから見てたら、攻撃のつもりで言ってないのが見える。
だけど本人は攻撃されたと思っている。
実は攻撃などされていない。
自分が攻撃されたと信じている。
これはどういうことか?
つまり密かに自分には罪があると思っているから、
それに対する罰を受けなければいけないと、
そのチャンスを狙っている、ということだったりして。
では罪って何?
「私がすこぶる美しいから。だからそれが罪ね」
「私はすこぶるお金持ち。だからそれが罪ね」
「私はすこぶるブス。だからそれが罪ね」
「私はすこぶるバカだ。だからそれが罪ね」
罪探したら果てしなく続く。
もう存在していること自体が罪だ!というところまで行く。
コースはいう。
実は、神から離れてみたいと思ったことから、この世界ができたという。
つまり神に逆らったという重罪を背負って、私はこの世界にいるのだ。
それってもう生まれたこと自体が罪!
そう信じているとすれば、この意味不明な罪悪感の大元が見えてくる。
そしてひたすら罪をあおってくる心の中の声の正体がバレ始める。
その声は、ずっと「お前は罪人だ罪人だ罪人だ罪人だ。。。」
と言い続けているだけなのだ。
だけどそれを真に受けるか、真に受けないかは、ひとえに私たちにかかっている。
つまり!その声には何の力もない。
その声は、ただそう言い続けるだけで、
私たちがその気にならなければ、
指一本動かすこともできない!
自我の声には何の力もない。
力があるのは、私たちだ!
私たちとは、正しい心を持った存在。神の子。
だけどこの世界で生きているということは、すっかりその源を忘れてしまっている。
その忘れたものを、今、思い出そうとしているのだ。
自我の声を真に受けるとは、間違った心で生きること。
混乱と恐れと戦いと防衛に明け暮れる、十字架を背負った心。
小忙しくしたり、不幸をコンビニで買ってくる心。
誰かが私を襲いにくるという、あなたと私が分離した心。
そんな心、持ってる必要ある?
さてと。
コンビニで、おいなりさん買ってこよ~。
(そっちかいっ)
絵:「道草」
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