心の中が静かになってくる。
というか、心の中でこの世界のことを考えているのが少し苦しくなってきた。
なんでもないこと。
例えば、明日の予定とか、ここにあるこれをどうしようとか。
そういったたわいもないことまで、考えの中にいることが少し苦しい。
でも心の中に真っ白で何もないところを思い出すと、そこに行く。そこでくつろぐ。
何も考える必要がないことをだんだん知り始める。
心をじーっと見ていると、常にプルプルと活動している。
何かをつかもうと動き回っているのだ。
この衝動が、外にあるものに集中して、
社会を見て批判したり、兄弟を見てジャッジしたりしている。
そしてまた、幸せを形の中に見出したりする。
この形になってくれれば私は幸せ、と。
そうやってこの世界を実在させていく。
私たちは当たり前のように、目に見える形象を中心に物事を考えている。
それは当たり前すぎて、疑問にも思わない。
見えている形象に対して判断や解釈をする。
それは良くない、あれが正しいと判断して、
その形を変える努力をする。
だがこれは結果だった。
まず最初に考えがあって、その考えに基づいて形が見えていたのだ。
物質的に存在するものは、あると断定している。
なぜなら触れるから。におうから。聞こえるから。見えるから。
だから、ある、と。
しかしそれこそが疑わしいものだった。
そもそも私たちはその五感でしかそれが実在すると証明するしかない。
五感という持っているもので「そこにあるもん!」って言ってるだけなのだ。
形はその考えによって作られたものであるということ。
見えているものは結果だ。
その発端は考え。つまり原因は考えにある。
その考えを疑っていく。
自分が今まで持っていた、形に関するありとあらゆる考えを、
聖霊に訂正を頼み続けていると、
心は自分が何を信じているかということに比重が置かれ始める。
形100%から、
形80%、心20%、
そして形60%、心40%。。。。
という風に、原因である心(考え)に心がフォーカスされ始める。
心への比重が大きくなればなるほど、形への恐れがだんだん希薄になっていく。
形は心の結果でしかないことを実感する。
私たちは苦しみを、その原因であるかのように見える形を変えることで、
苦しみを取り除こうとしているのだ。
それは自我のトリックだ。
いつまでも形にとらわれてくれるように仕向けられている。
心は常に活動的だという気づきは、
自我による形を作り出すことに力を使うことから、
私たちの本来の力である創造の方にシフトをし始める。
恐れの中で形を作り出し続けるのか、
愛の中で愛と喜びを創造し拡張させていくのか。
片方は実在せず、もう片方は、、、
いや、それしか実在しない。
圧倒的な実在が迫ってくる。
何も必要ではなく、何もする必要もない。
喜びで、アホになっていく。
絵:「春」
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