2014年7月27日日曜日

努力するとできない



「~しなければいけない」っておもったり、誰かにいわれたりしたら、抵抗を感じない?

それはたとえどんなにやりたいっておもったことでも、それをしなければいけない、それをすべきだといわれると、いつのまにか義務になってしまい、心に抵抗を感じるのだ。

やりたいことは何?って聞かれると、絵を描きたい!とか歌を歌いたい!とかダンスをしたい!とか、やりたいことベスト3に入るよーな仕事をやまんばはしている。
ところが、それが「絵を描かなければいけない」と思った瞬間、
「げげ~、いやだな。あー、逃げたいー」となってしまう。

畑だってそーだ。
「あー、なんか種まきた~い」
って思うとワクワクするが、
「今日は畑に行って、あれとこれの種を蒔かないといけないのだ」
とおもったとたん、それは目標になり、スケジュールになり、義務になり、達成すべきノルマに変わってしまう。

するとカラダもなんだかぎこちなくなってかちんかちんになり、
「あれはこの畝に植えるべきだ。いや、やっぱりあっちの畝に植えるべき。。」
とかなんとかなって、そのあとは、
「これが失敗したらどうしよう。まちがった畝に入れてしまってたらどーしよう」
と、アレコレ迷いはじめる。

ところが、「あ~、なんか種蒔きた~い」とおもうと、
「あっ、ここに入れちゃえ!」
と、迷うことなくテキトーに蒔き、あっとゆーまにおわる。しかも入れたあとで、結果を目を皿のよーにして追いかけることもない。

人は気楽にやったものには頓着しないところがある。
しかし必死こいて考えて、壮大なる計画を練ってしたものには執着するケイコーがある気がするのだ。

ンで、その執着したものには、あんまり、とゆーか、はっきりと、ちっともうまくいかない!
なんでやねん!なんでやねん!


絵もそうだが、「~すべきだ」というと、かちんかちんになり、思うよーにアイディアも浮かばないし、デッサンもぎこちなくなる。するとますますそれに執着するよーになって、ますますがちんがちんになる。必死こいて力こぶ作っても全然できなくて、
「も、もうだめだ。。。」となったところで、
「あれ?これ。。。?」
と、何かがそこにいるのだ。「なあんだ。ずっとそこにいたんだ」というくらいあたり前にそばにあったアイディアがみつかる。
それからはスケートを滑るがごとくスーイスイ。


人はそれは必死になって努力したからその成果が出たんだというだろう。
でも、どーも、どーも、どーも違うのだ。じつはその反対なのだ。
必死になって努力したからで来たのではなく、必死になったあと、もうムリ。。って、力が抜けたあとにできたことなんだ!

だから「あ~なんか種蒔きた~い」っていうのは、力の抜けた状態なのだ。その軽さが柔軟性とダイナミックさを生む。頭だけで考えつかない、もっと未知な大きなものを掴むんじゃないだろうか。


私たちはあまりにも「~すべき」「~しなければいけない」というコトバに使われている。そのコトバに「抵抗」を感じながらもムリヤリ押し進めているのが日々の現状じゃないだろうか。

同じ考え。同じ反応。同じ動作。
その結果は当然同じもの。

「すべきもの」として行為するならば、その時点ですでに今までと同じ結果しか生まないようなのだ。




2 件のコメント:

まいうぅーぱぱ さんのコメント...

うーん・・多分、努力した時って、「目標はあそこ!!」って、そっち進んで、結果、あそこ以上でなければ、「うまく行かなかった・・・orz」になるけれど、
「努力しないぞー!!」ってときは、どこに辿り着いても「これでいいじゃん!!大成功!」になるからカナカナカナカナ・・・(笑)

つくし さんのコメント...

目標作ると、目標ラインが決まっちゃう。すると無意識に結果をそれと比較するから苦しくなるんだろうね。

別の視点から見ると、目標をもつってのは、「すでに知っている結果」なのだ。既知のものを求めている。
すでに知っているものを目指すっておもしろくない。

ぱぱさんのおっしゃる「努力しないぞー!!」てのは、なにかこう、意図しないものが産み出されてくる、未知なる新たな可能性を秘めていると思うんだ。
やまんばはそっちに行きたいな。