2014年5月31日土曜日

善悪の木の実はゲームへの入場券?



エデンの園からニンゲンは追放されて、エデンの外にわしらはいるとおもってるけど、ほんとはそのエデンはもんのすごーくでかいとしたら?

ほら仏教だって、どこまで行ってもお釈迦様の手の中にあるってなこといわれてんじゃん。
これをキリスト教的いえば、どこまで行ってもエデンの園の中にいて、わしらは「外に追放された」っておもってるけど、ほんとは箱庭みたいなちっこい世界の中で右往左往してるだけじゃないかって。

善悪の木の実をもったヘビが、エデンの園の出口(ホントは箱庭の入り口)に立っていて、
「は~い、善悪を知る木の実いかがですか~?食べればあなたは即、善悪の世界に入れますよ~」
と、さそっている。
いわばヘビは善悪のゲームセンターの入り口でチケット売ってるおじさんみたいなもの。チケットは紙じゃなくて、木の実を食べること。

するとあなたは即善悪とゆーものを知る。そして、アダムのちんちんをみて、
「あら、そんなもの出してちゃいけないでしょ!」と判断し、
「おいっ!おまえこそちち出してちゃみっともないだろ!」
と、なる。
あっとゆーまに、善悪を知る(ほんとは見つける?)。

そこから善悪ゲームの始まりだ。
私たちは、善悪、損得、優劣、高い低い、太い細い、大きい小さい。。。。と二元論の中に突入。ありとあらゆるものをこの物差しで測るようになり、他人と自分を比べておおさわぎする。
男女、これもひょっとしたら、もとはアダムとイブは一人だったのかもしれない。木の実を食べたとたん、男女に分かれたのかもしれない。

ゲームのあがりは、
「あれ?これホントはゲームだった?」
と気づくことだったりして。
「あれえ~、気がついちゃった?」
ってヘビがいう。
そこで、
「おっめでとうございますうううう~~~!!!ぱんぱかぱあ~ん!」
とラッパがなる。

でもほんとは、物質として箱庭があるわけじゃなくて、一人一人が作った善悪の価値観の中で、自分の頭の中が縛られているだけなんじゃないか?私たちは単に自分が作った観念の牢獄の中で自分自身に縛りをつけているだけなんじゃないだろうか。
その善悪の色メガネをちょっとはずせば、いくらでも目の前にエデンの園は広がっている。いつでもここにあって、いつでもそれに気がつくことを待っている。

善悪を知ることによって、ニンゲンは色んなものを作った。それもまた豊かな試みなのだ。神様はじつにおもしろいものを思いついたものだ。

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