善悪。
これが人々の心を苦しめる。
成績が悪い→いけないこと。
学校に行かない→いけないこと。
いけないとおもえばおもうほど、どつぼにはまる。
しかしクラスで成績順位とゆーものがあるかぎり、必ず1番がいて、必ず誰かがビリッケツになる。すると2番は1番をうらやみ、ビリッケツから2番目は、優越感にひたる。
やまんばは高校でビリッケツに近かったが、ビリッケツになったことがないとゆーことは、誰かがビリッケツだったのだ。だが、誰一人欠けることなくみんな卒業した。
とゆーことは、ビリッケツのだれかさんも、堂々と卒業したのだ。
やまんばはすごいとおもう。ビリの人はビリを演じてくれたのだ。ビリのままでも好いと、堂々としていたのだ。ほんとは苦しかったのかもしれない。だけどみんな来たのだ。その思いはいかばかりだったろう。優越をつねに意識させるこの社会で、自分がビリだと知りながら学校に来る強さ。
きっと成績うんぬんだけじゃない学校生活の魅力をその人は知っていたのだ。
善悪。優劣。
世の中の秩序を守るものである。しかし同時に残酷でもある。
ほんの些細なことでまで、人々は自分の存在をかけてまでしていがみ合う。
インターネットを見たりすると、ありとあらゆるところに、
「いいか、わるいか」
という判断を迫って来る広告が散りばめられている。
人々はパブロフの犬のように
「ああ、これはいいにきまっている」
「ああ、それはわるいに決まっている」
と無意識に誘導される。
一度「これがいい」「これがわるい」とインプットされた判断基準は、自分があえて意識しない限り、そのままその基準を遂行する。
そしてそれがいつのまにかその人の心のしばりになっていく。
これが今私たちの心の中で起こっていることだ。
やまんばはなにかあったとき
「あ、これいけない!」
と思った瞬間、その先に進むいつものパターンの心の動きを一瞬止めて、
「ほんとうにこれはいけないことだろうか。。。?」
と自分に問うてみることにしている。
そのほんの少しの間に
「そうでもない。。。か」
と、思えるようになる自分を知った。
正しいまちがっている、という答えを求めたがっていた自分に気がつく。
本当は「答え」なんてどこにもないのかもしれないのに。。。
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