2019年10月12日土曜日

なにものでもないもの




ずっとずっと、何かになろうとし続けていた。

優れた才能を持った人物に、いい人間に、すてきな人に、頭のいい人に、親孝行ものに、きれいずきに、迷惑かけない人に、、、、。

ずっとずっとずっと、このままではなく、つねに何かになろうとし続けた。
それは四六時中そうだった。仕事をしていても、遅くならないように、早く早くと自分を追い立てて、絵も、こんな絵じゃダメだ、こんなアイディアじゃダメだ、と言い続けた。
家のことも、こんな汚い家じゃダメだ、こんな味付けじゃダメだ、こんな私じゃダメだと言い続けた。

心を深く深く見れば見るほど、自分がどれだけ自分を罰して責めていたぶり続けていたかが、どんどんあきらかになっていった。

言葉にならないほど責め立てることが、私を苦しめているとわかっているのに、まったくやめられない私にも気づいた。
やめようともがいてももがいてもそれをやめられない自分を、また責め立てた。

こんな自分を殺したくなった。
しかし殺しても、この苦しさは消えないことも知っていた。

そんな苦しみの中でも、日々の心の訓練のおかげですこしずつ穏やかさが見えていた。そのかすかな光にすがりながら、少しずつプロセスが動いているのを感じていた。



さんぽをしていた。
土手を見ながらある思いが湧く。
「もう、ならなくていい。ならなくていいのだ」

その言葉を心が聞いた時、はっとした。

そうだ。
なろうとするから苦しかったのだ!
だって、自分ではないものになろうとしていたから。くるしいに決まってる。
なれるはずのないものになろうとして、苦しまないわけがない。

なろうとする行為は、まるで目の前にある目に見えない何かをつかもうつかもうと、、、そう、空気をつかもうとしているかのようだった。

その何かをつかめば、「それ」になれるとおもい、必死でなろうとしていたのだ。



もうならない。
土手を見ながらそう呟いた。

じゃあ、なんになる?
なににも。

なににもならない。



目の前にあるはずのものは、自分の外にあった。そこにあるとおもっていた架空の希望や願いを求めることは、自分の外にあるものになることだったのだ。自分のものでない何かをつかんで、それを自分の中にいれようとしていたのだ。
なんだ。そんなことだったのか。。。

なににもならないでいいとすれば、いったいなにになるのだ?
いや。なるのではなく、なにものでもないものであればいい。
なにものでもないものとは?

わからない。
どんな形か、どんなものか、どんな才能かも、
いったいそこになにがあるのかわからない。
だけど、ここにいる感覚だけはある。
いる、というのか、ある、というのか。。。。

ほんとうはこことは、、、
こことは場所なのか、考えなのか、、、それさえもわからない。


自分のからだのほんの先にあるとおもっていたもの、まるで馬の前につるしたニンジンのようだけど、それを手に入れるのをやめて、内側を広げていく。

外へ外へと伸ばしていた手を、内へ内へと方向転換するのだ。外にむいていた手の平を、こっちに向けて、肋骨を広げるようなしぐさで内へ内へと入っていく。


それが何を示しているのかまったくわからない。無色透明で形もない。
それなのに、そこに無限の喜びを感じる。
「私」がどんどん大きくなっていく。
内へ内へと水をかき回すようにを手を動かしていけば行くほど、無限の水の輪っかが自分の後ろに広がっていく。

まるで今まで外へ外へと求めて、外にパワーを与えていたものを、逆向きに自分に戻しているかのようだ。戻せば戻すほど、無色透明な、我/われが広がっていく。
からだがからだの姿を消しはじめる。


ふしぎだ。
外のものになろうとしていたときは、からだが輪郭を持ってはっきりとあったのに、内に戻れば戻るほど、物質的なからだはリアル感を失っていく。
それなのに、ここにあることをはっきりと感じるのだ。

ここにあるものが中心となっている。
すべての土台をここに置けばいいのだった。
すべての源をここに置けばいいのだった。
すべてはここから始まったのだ。

いったいなにになろうとしていたのか。すべてはここにあったというのに。

心を、、、
心をどんどん広げていこう。
どこまでも、きりがないほどに。

山道を歩きながらそれをあたためた。
さっきまでの重苦しさはどこかに消えていた。


道の途中でお兄さんが何やら大事そうに草木を眺めている。
近くまで来て挨拶しようとしたら、ふいにこっちを向いた。
その時の彼の顔と言ったら。
あそこまで飛び上がってビックリする人を見たのは久しぶりだ。

「あはは。びっくりさせちゃったねえ~。ごめんよ~」
ふたりのあいだに暖かさが広がった。

その時いっしゅん山の視線を感じた。




絵/サトイモ

2019年10月3日木曜日

一人芝居


責任。

どんなにそのことばに囚われていたんだろう。。。


人に映画を勧めるのは、おもしろいものを勧めなければいけないという責任。

ブログを書く時、誰も傷つけないように書かなければいけない責任。
誰も怒らせないようにしなければいけない責任。
誰にも迷惑かけないようにしなければいけない責任。
そしておもしろいとおもわせるものを書かなければいけない責任。

仕事では、クライアントの期待を上回る仕事をしなければいけない責任。
アイディア、デッサン、申し分のないものを出さなければいけない責任。

料理はおいしいものを作らねばならない責任。
バランスよく料理を作らなければいけない責任。

部屋はきれいにしとかないといけない責任。

責任、責任、責任。。。。。

だれに?だれのための責任?



だれかにここにいていいと、言われるために。
自分がここにいていいと、認められるために。



だれに?
具体的に、だれもそう言ってないよ。
あんたが責任取ってないから、ここにいちゃだめ!なんて。。


自分のため。。?

そうだ。自分のためだ。
それは自分が攻撃をされないために、防御のための防衛策だ。
責任を果たしていると、だれにも攻撃されない。
攻撃されないための「責任」という名の防衛策。

いじめられていたころのことを思いだす。
そうだ。いじめられないためだ。
後ろ指刺されないためだ。

だが。
だれから身を守るのだ?
今、だれが私を攻撃している?


私だ。
私の心だ。


私が私を攻撃しているのだ。
いじめるのは、後ろ指さすのは、攻撃を仕掛けるのは、
わたしだ!

私という名の自我だ。
自分が自分に攻撃を仕掛けて、くるしんでいる。


自分の中の妄想で、人がさも自分に攻撃を仕掛けているかのようにおもい、
怒りとおそれの中で暴走している。




すべて、一人でやっていることだ。
一人の中に何人も役者を設定して、その役者に悪者を演じてもらう。
その悪者と戦うことで、自分を正当化する、そしてここにいていいのだと認めてもらう。
他人と言う名の自分に。

そしてまた、あらたな悪者が現れて。。。。



もうやめよう。
まったくきりがない。

攻撃しているのは自分だと知る。
ではこの攻撃をやめればいいのだ。

そんなこと言ったって、お尻叩かないとのらくらしてたら、
ろくな人生にならないじゃない!


いったい誰が言ってる?
私の自我がそう叫んでいるだけだ。


もうこのお芝居はやめよう。

ひとり狂気の世界。





2019年10月1日火曜日

別の見方



畑にお別れをしたあと、心もとないままさんぽにでる。

圏央道が高尾山の懐に風穴を開けた橋の下で座る。


「終ったなあ~。。。やっぱさびしいなあ~。。。」
意気消沈している私の心に、ふいにFBでもらったコメントがよみがえる。
そこには「決断おめでとう!」と書いてあった。

「畑やめた決断、おめでとうかあ~。。。。
ってか『おめでとう』ってなんやねん!」
と、ひとりツッコミを入れる。


畑をやめる決断をした私に、エールを送ってくれた彼女は、日頃ものすごい緊張を強いられる仕事の中で、数多くの決断をしてきた人だ。自分の決断がまちがえば、億単位のお金の損失をまねく。。。。

私の決断は一銭も動かん。次元が違う。
なのにじめじめくよくよ、あと髪引かれていた。その結果ダンナにぎっくり腰させちゃって、あわててやめた根性なしだ。



「おめでとうかあ~」
畑をやめると、たいていは、お疲れさまとか、さびしいねえ、などの共感をもらう。その言葉にホッとさせられたり、安堵したり。
だけどおめでとうは、良かったね!というニュアンスがこもっている。やめたことはすてきなことだ!という前向きな考えが入っている。



その時おもった。
あ!これだ!
彼女の言葉は次元を越えていた。
ぽーん!と、別次元の視点を与えてくれたんだ。
ほんとは彼女はそこまでの意図があったわけではなかったのかもしれないが、私に大きな転換をくれた。



「そうだ!これだ!今までにない視点、今まで考えもつかなかった別の考えがあるんだ!」
橋の下で急に元気になった。胸のあたりからボワン!と大きなものが膨らんだ。



別の視点?
そうそう。まったく別の視点だ。
それは日頃私たちが普通に考える判断、解釈。それとは真反対のものだ。過去を探してもでて来ない、未知のアイディアだ。

自我がいつも私たちに投げかける、悲しげなネガティブなアイデアではなく、聖霊がもつ豊かなアイディアだ。



「そうだ!そうなんだ!この畑をやめたことは、きっと別の視点でみれる!やったあ~!」
じゃあ、別な視点はなんなのか?といわれれば、「はて?」となる。
ちっとも解決はしてない。なのになぜかその「別の視点」をはじめて意識した私は天下を取ったような気分になった。

そしてこれが、奇跡の意味だったことをのちに知る。
自我の視点ではなく、聖霊の視点をもつ。いや、持とうと意志すること。別の視点をもちたいと願うこと。このこと自体が奇跡だったのだ。





ここで母の背骨事件をおもいだす。
彼女は背骨が木っ端みじんになった時、泣くわけでもなく、ただ一言こうおもった。
「あ。粉々に砕けた背骨は、私のからだの中に今あるがよね。ほいたら、集めりゃええだけやんか」

このアイディアは自我の視点ではぜったい思いつかない。自我だと、ああしてこうしてこうやって、、、、ああ、一生車いす。。。というアイディアしか浮かばない。
まちがっても「集めりゃええがよね」とはおもわない。

あの時、彼女は別の視点をもらったのだ。
原因と結果とは、原因、つまり心がつくる。
原因になる心が自我の視点ではなければ、結果も自我の視点の世界にはない。


彼女がそれを意識的にやったのではない。たまたまそうアイディアが浮かんだのだ。
その理由はわからない。でもきっとそれは偶然ではないのだろう。彼女のバックボーンがそううながしたのだ。





起こるできごとは、どうしようもなく起こる。
それを偶然だとはおもわなくなった。その人にとって必要だから起こるのだ。
そしてその時、その出来事をどう解釈、どう判断するかによって、その先がちがってくる。

すべては心にかかっている。
今まで通りの解釈や判断で抵抗してもいいだろう。だけどきついことであればあるほど、それは何かを教えようとしている。今まで通りに抵抗をすれば、一時は楽かもしれないが、やがて同じようなことが起こって、最終的にそれに向かわざるを得なくなる。


私は畑をやめたことに、判断をしないことにする。今の私は自我でしか考えられない。
なぜなら自我は混乱しか生まないことを知りはじめたから。

判断は起こる。それが私たちの習慣だから。
だけどその判断が何か窮屈なものであったなら、それは採用しないほうがいいかもしれない。

別の見方をしたい。
ただそれを願う。






2019年9月28日土曜日

畑という大きな親



11年やってきた畑をやめた。

なんでかって?
もちろん挫折したからさー。
成功してやめる人はめったにいないやろ。

一番の理由は、体力。
二番目は一番目とほとんど同じ。野生動物とのおりあいがつかなかったこと。

やってもやっても彼らに持っていかれる。普通ならやらないこと、大根にネットを掛ける、枝豆にネットを掛ける、落花生に、ジャガイモに、取られないようにあらゆることをやった。それでも食べられる。彼らが食べないのは、唐辛子とシシトウとピーマンぐらい。他は全部平らげる。

畑に向かうたびに、荒らされてないか気が重い。
心の勉強をしていることで、物理的なもの以外にまでその原因をさぐった。この現象は自分の考え方の何が悪いのか?どう考えればこの現象が終るのか?と。

それでも答えは見つけられなかった。



やめるきっかけになったのは、イノシシに入られたこと。徹底的にやられた。その惨状を見た時、なぜか心は穏やかだった。どこかでやめるきっかけを探していたんだと思う。

それでもその予感は一年前から徐々に来ていた。父の死の前後、忙しくて畑に向かえない。草は生え放題。畑は徐々に山に帰ろうとしていた。その上バイトで体力はがっくりと落ちた。


ある時、畑に未来を感じない自分を見つけた。
そのおどろきとあまりの悲しさに、畑でひとり大声で泣いた。
その時自分がいかに土に触れることを愛してやまなかったかを知る。
小さいときからいつも一人で土と戯れていたのだから。




畑は私に収穫だけでなく、ありとあらゆることを教えてくれた。

辛い時、苦しさに喘いでいる時、草を刈っていると、ふいにヒントをくれる。
まるでまわりの土や草や虫たちが、私の心にじっと耳を傾けて聞いているかのようだった。

すべてが私の仲間だった。草は刈られることをいとわなかった。最初は草を刈ることに罪の意識を感じていた。しかし彼らに私たち人間がもつ自我のようなものはなかった。ただただ受け入れてくる。自我の塊の私をただただ受け入れる。したいようにさせる。

私は畑という大きな親の懐の中で遊ぶ、ひとりのやんちゃな子どもだった。



イノシシはこの畑に野生の空気を入れてくれた。イノシシにホックリ返されて、畑全体に出来た大量の巨大な穴たちは、土にたくさん空気を入れた。畑が、大きく深呼吸をしているように見えた。

「ここで学ぶことはもう終ったね。さあ、交替だよ」
そう、イノシシは言っていた。



私は黙々と小屋の整理を始めた。
整理したら、またやりたくなるかな?
ひそかに期待をしている自分がまだいた。
しかし心は動かなかった。

それでも自我は過去楽しかったことを思い起こさせて、まだ畑にしがみつけとうながしてくる。それをバッサリ切られることになったのは、ダンナに力仕事を頼んだときだった。彼が一瞬のうちに腰をやられた。その時私の畑への執着が、彼のケガにつながってしまったと気づかされた。


畑は私の背中を押していた。
「もう、ここから出て行きなさい。」


畑にあった支柱を全部外して、小屋をきれいにした。
私が畑から持って帰ったのは、生前ゆいいつ父に買って送ってもらったハミキリとのこぎり一個。それだけで十分だった。


帰りがけ、畑にいっぱいお礼を言った。
もう言葉にはならないくらいの感謝でいっぱいだったけど、全然言いたらないけど、
それでもきっとわかってくれているだろう。

さようならは、なぜか言えなかった。


薄赤く色づいたすすきがゆれて、私に手をふっていた。




2019年9月27日金曜日

幸せを求めて




しあわせってなんだっけ?

ポン酢醤油のあるうちさ~♪
って、うん。それもある。(あるんかい!)

そう。わしらは、幸せを感じる時、あるものをここにもってくる。
ケーキ。おいしもの。好きなもの。好きなこと。

楽しいことをしたから幸せ。
楽しい時間を味わったから幸せ。
必ずそこに条件がある。「~だから、幸せ」

「何にもないけど幸せ。」
とは、なかなかならない。
つねに幸せになるアイテムを無意識に探している。



そして私たちは、幸せを未来に託している。
「こうなったら、幸せ」
「いつかこうなれたら。。」
「今がんばったら、あとでご褒美が。。。」
「今苦しいけど、三年後には、資格を取ってああなって。。。」
「今きついけど、老後には悠々自適。。。」
(でもダンナがリタイアして大満足な奥さんはめったにいない。
たいてい「え~~~、家でゴロゴロしてないでどっかいってよ」となるw)

ケーキ食べている真っ最中でも、心はどこか未来にある。
「これ食べたら、あれ食べよ」とか。

心/自我は、つねに心を今ここにいさせない。未来か過去に押しやる。




先日、11年間やっていた畑をやめることにした。
そのとたん、私に未来がなくなった。
種を蒔くとは、未来に期待をさせていたのだ。それが突然消えた。お先真っ暗だ。その時私はどれだけ畑に自分の未来を重ねていたかを知った。
未来が自分にどれだけ生きる糧を与えていたのかを知ったのだった。

そしてぱらぱらと紐解けていく、この世の幸せの実体。

未来にいくら幸せの希望を抱いたところで、その「未来」にたどりついたとき(それは「今」になっているのだが)、それはまたその先の未来の希望に託すだけで、延々と続く、果てしない、いつまでたっても叶えられない幸せなのだ。

そういうことがわかってくると、「~して幸せ♥」は、子どもだましのおままごとに思えてくる。


今、コーヒーを飲みながらシフォンケーキをつまんでパソコンを叩いているが、それは幸せの本質ではないのを知っている。
仕事の納品を終えてビールを飲む幸せ感、それさえも本質ではない。
私たちが本当に求めていることは、これではないのだ。




ただ、安堵したいのだ。
ああ~、これでよかったのだ、と。
探すことをやめられた瞬間の、ホッとする感じ。

何かしなければ、いけないという焦燥感から解放された、何もしなくていい安堵感。
何もしなくても、ここにいていいと言われている安堵感。
どんな能力もなくていいと、ただそこにいるだけでいいと、自分は何もしなくても価値があると、心底感じられるここちよさ。

心がざわざわせず、静かで、満ち足りた感じがして、平安が広がっている。。。
内側から広がっていく何かを感じている。。。
自分ではない何かになろうとしない自然な感覚。



いつのまにか、私たちは幸せとは何かをゲットして得るものだと思わされて来た。
忘れているだけだ。

それは何をしなくても、いつもここにあったのだ。




2019年9月24日火曜日

コースのワークブックを終えて



奇跡のコース/奇跡講座/奇跡の道のワークブックを一年かけてやり終えた。

かなりいいかげんで不良な生徒だったが、自分がこんなふうに地道に心を訓練するような人間だとは思わなかった。
それだけ切羽詰まっているのだ。生きていくということに。

あろうことか、ウチのダンナまでワークブックをやりはじめた。
彼もずっと探求し続け、不二一元論のマハルシ、マハラジの教えを徹底的に読み解いて来た彼が、だ。
ふたりとも切羽詰まっているのだ、生きていることに(笑)。

奇跡のコースのワークブックは365個、一日ひとつの文言とともに一日を過ごしていく。早くても一年かかる。まじめなじっくり取り組む人は何年もかける。

ずっと信じて来た考え方を180度回転し、ま反対に向けるワーク。おいそれとは、一筋縄ではいかない。
自我とともに生きて来た私たちは、その言葉に絶句、抵抗し続ける。
そんなわけないやろ!あほか!と。
だから途中で断念する人続出。あの分厚い本は、ドアのストッパーにされるか、本棚の肥やしに収まる。
それでも買った人は、何年かのちにふと手にとってしまう。そしてあらためて読みはじめるのだ。

365章にまで行き着いて
「やったあー!ついに終ったー!」
と、諸手を上げてよろこんでいるのもつかの間、その後すぐにダンナがやりはじめた。

だから今一緒に読んでいる。
ワークブックは、一度で終らせず何クールもやる人が多い。
あらためて一年後に読み返すと、最初っから本筋しかいってないことがわかる。ど直球で一個のことしか言ってない。
一年前にこれらの言葉を読んでもさっぱり意味が分からなかったが、今はすこし理解しているのがうれしい。
きっと何クール目に入ったとしても、そのつど言葉の意味をもっと深く理解していくのだろう。

理解のひとつに「私は一人ではない」と言うことを気づかせてくれた。
いや本当は知っていた。ずっと前、当り前だった感覚。誰かとともにいたことを。

それがいつのまにか、たった一人でがんばらなければいけないのだと信じてやっていた。
私はこの世界をまったく知らないのだから、自分一人で必死で学んで、必死でついていかなければいけないのだと思って来たのだ。

だけど思いだした。誰かと一緒だった。いつも一緒だったのに、もうすっかり忘れていて、半世紀以上たっていた。
何かの存在を感じるわけでもない。誰かが横に立っているわけでもない。それなのに一人じゃないという感覚。ひとりぼっちじゃないという感覚。

その間、自我はひっきりなしに言ってくる。
「お前はひとりだ!一人でがんばらないといけないんだ!誰もお前を助けてなんかくれない!なぜならお前は無価値だからだ!」
ずっとその声に耳を傾けて来た。
そうだ。私は無価値だ。だからがんばってがんばってがんばらないと、この世界にいられないと。


それも今は小さな声になっている。
あの声は本当の自分の声ではない、と知っていることの安堵感。
言わせておけばいい。そのうち消えてなくなる。

コースは、頭の中に聞こえている声がいったいなんなのかを徹底的に教えてくれる。
あまりの徹底ぶりに、本を壁に投げつけたくなるほどだ。
投げつけてもいいんだと思う。
そのときその人は、正直に自分の心と向き合っている。



心を見ることは怖い。
それは見られると消えてしまう何かが、恐れを抱いているからだ。

その怖がっているものは、本当の私なのだろうか。


2019年9月9日月曜日

あらしの夜に



昨晩台風の風の音が怖くて、寝られなかった。
こりゃ、高知県人。こんな台風の風の音で、なにビクビクしてる!
と、頭でいくら説得しようったって無理だー。

怖れの中で、怖れを消せない。
悶々とする中で、怖れをきらうのではなく、怖れってどんな感じ?と味わうことにした。
きらうって、怖れを受け取らないことだ。
どんな感じかと味わうとは、自分が怖れていることを受け取ることになる。


そっとからだの感覚に耳を澄ます。
胸のあたりがなにやらモワモワするあるイメージが出てきた。
それはぱりぱりと軽いものが割れて行くイメージ。たとえて言うならレタスの芯が割れているかんじ。そのレタスの芯が胸のあたりでぱりぱりと割れている。
恐怖ってこんなかんじなんだ。。。

そのなんとも言えない感じを味わいながらも、その最中風の音にビクビクと囚われていない自分がいた。
しばらくすると、悲しみが出てきた。恐怖なのに悲しみ?怒りも交じっている。レタスの芯のパリパリのあとに、何か別のものが見え始める。

何かが胸に突き刺さっている。太さ十センチ角のアルミの棒のようなものが、斜め上から私の胸の中に突き刺さって、背中に抜けていた。

こんなものが私の胸に刺さっていたのか。。。

ふと小さい時に起きた事件を思いだした。
飼っていた子犬のコロが死んだときのことだ。
「ああ、まだ私の中にあれが残っていたんだ。。。」

まだ小さかったコロをだいて、友だちの家に遊びにいったときのこと。コロはまだ繋がれていなかった。その子の家の庭でちょうどいいカゴを見つけた。コロの上にひっくり返して檻のようにして乗せておいた。

ひとしきり友だちと遊んで家に帰るろうとするとコロがいない。やっと見つけたコロは庭の脇を流れていた水路の中で溺れ死んでいた。コロは軽いカゴを押しながら水路に向かったようだ。
自分の不注意でコロが死んでしまった。あの時カゴをかぶせなかったら、コロは死んでいなかったにちがいない。
泣きじゃくりながら浴衣に包んだ濡れたコロの亡がらを父といっしょに海に捨てにいった。
あのときの悲しみと恐怖、それに自分への怒りが入り交じったものが、アルミの角棒として私のむねに突き刺さっていた。



「もう、これは私には必要ない。。。聖霊さんに取り消してもらおう」
あふれてくる思いをそっと胸から取り出して、見えはしないが、たしかにそこにいるであろう聖霊にそれを差し出した。

私たちは通常自我の中で考えている。自我は自我で消せない。
自我の土俵にはいない存在にそれをゆだねるのだ。


それからしばらくして心が静かになった。胸にあったアルミの棒は消えていた。

私の怖れは、自分が何かまちがったことをしているんではないかおもっていること。
その元になっているのがコロの事件。私のまちがいで、ひとつの命を落とさせてしまうかもしれないという究極の恐怖だ。

だから台風の嵐は、私が見落としたもので、何かが壊れる、誰かに迷惑をかける、そんな事になるんではないかという恐怖だったのだ。
だからいつも「雨戸はだいじょうぶ?玄関に置いてある傘立ては?あれは?これは?」と、心が右往左往してしまうのだった。


少し前とはまるでちがう静かになった心は、
ただ風の音を聴いていた。