2019年9月27日金曜日

幸せを求めて




しあわせってなんだっけ?

ポン酢醤油のあるうちさ~♪
って、うん。それもある。(あるんかい!)

そう。わしらは、幸せを感じる時、あるものをここにもってくる。
ケーキ。おいしもの。好きなもの。好きなこと。

楽しいことをしたから幸せ。
楽しい時間を味わったから幸せ。
必ずそこに条件がある。「~だから、幸せ」

「何にもないけど幸せ。」
とは、なかなかならない。
つねに幸せになるアイテムを無意識に探している。



そして私たちは、幸せを未来に託している。
「こうなったら、幸せ」
「いつかこうなれたら。。」
「今がんばったら、あとでご褒美が。。。」
「今苦しいけど、三年後には、資格を取ってああなって。。。」
「今きついけど、老後には悠々自適。。。」
(でもダンナがリタイアして大満足な奥さんはめったにいない。
たいてい「え~~~、家でゴロゴロしてないでどっかいってよ」となるw)

ケーキ食べている真っ最中でも、心はどこか未来にある。
「これ食べたら、あれ食べよ」とか。

心/自我は、つねに心を今ここにいさせない。未来か過去に押しやる。




先日、11年間やっていた畑をやめることにした。
そのとたん、私に未来がなくなった。
種を蒔くとは、未来に期待をさせていたのだ。それが突然消えた。お先真っ暗だ。その時私はどれだけ畑に自分の未来を重ねていたかを知った。
未来が自分にどれだけ生きる糧を与えていたのかを知ったのだった。

そしてぱらぱらと紐解けていく、この世の幸せの実体。

未来にいくら幸せの希望を抱いたところで、その「未来」にたどりついたとき(それは「今」になっているのだが)、それはまたその先の未来の希望に託すだけで、延々と続く、果てしない、いつまでたっても叶えられない幸せなのだ。

そういうことがわかってくると、「~して幸せ♥」は、子どもだましのおままごとに思えてくる。


今、コーヒーを飲みながらシフォンケーキをつまんでパソコンを叩いているが、それは幸せの本質ではないのを知っている。
仕事の納品を終えてビールを飲む幸せ感、それさえも本質ではない。
私たちが本当に求めていることは、これではないのだ。




ただ、安堵したいのだ。
ああ~、これでよかったのだ、と。
探すことをやめられた瞬間の、ホッとする感じ。

何かしなければ、いけないという焦燥感から解放された、何もしなくていい安堵感。
何もしなくても、ここにいていいと言われている安堵感。
どんな能力もなくていいと、ただそこにいるだけでいいと、自分は何もしなくても価値があると、心底感じられるここちよさ。

心がざわざわせず、静かで、満ち足りた感じがして、平安が広がっている。。。
内側から広がっていく何かを感じている。。。
自分ではない何かになろうとしない自然な感覚。



いつのまにか、私たちは幸せとは何かをゲットして得るものだと思わされて来た。
忘れているだけだ。

それは何をしなくても、いつもここにあったのだ。




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