バイト先の店長のセクハラ言葉がすごい。
ここまであからさまに言う人をみたことがない。
そこでやまんばは、負けじと輪をかけて、店長にセクハラ発言をする。
「朝からすごい会話なやあ~」
と店長苦笑い。
セクハラ攻撃には、セクハラ言葉で100倍返しだ!
と、ここまでやって、はたと気がつく。
これ、攻撃やん。
攻撃されたと思うから、自分を守るために倍返しの攻撃!
これは延々と続く防御作戦。互いにニコニコにやにやしながら傷つけ合っているだけだ。
自分がやってることのむなしさばかばかしさに気づく。
もうやーめたっ。
最近、こんな風に考える。
「これ、愛で見たらどうなるんやろ?」
こんなこと考えるのはガラじゃない。どっか小っ恥ずかしい。
でもふいにそんな言葉が浮かんで、それを言うと自然とそんな目で見始める。
店長との会話が「攻撃やん」って気がつけたのも、そんな習慣がついていたからなのかもしれない。
私たちが世の中を、いかに怖れを通して見ていることか。
怖れながら見て、怖れながら行動する。
それがあまりに自動的すぎて、自分が怖れの中にいることさえ気づけない。
それがあまりに自動的すぎて、自分が怖れの中にいることさえ気づけない。
自分を守るために攻撃する。防御と攻撃はセットになっている。
その前提は敵がいる。敵は自分を傷つける。
そういうめがねでこの世を見る。いつ襲ってくるかわからない敵に向かってつねに防御策を練る。
そして私の場合、外だけじゃなく、自分の中に敵がいた。自分がいつ、自分に攻撃されるかわからない戦闘態勢の中で生きて来た。ビクビクおどおどしながら、自分がいつ裁かれるか、四六時中見張っていた。
だから怖れがどれだけ強いものか知っている。
それにどれだけ振り回されて来たことか。。。!!
けどそれは、存在しないものを存在しているかのごとく思っただけだった。
柳の木がゆれるのを、お化けがいる!と思って怖れているようなもんだった。
戦場は、心の中にあるだけだった。
怖れは、心の中にあるだけだった。
これ、怖れで見てない?
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