ずっとずっと、何かになろうとし続けていた。
優れた才能を持った人物に、いい人間に、すてきな人に、頭のいい人に、親孝行ものに、きれいずきに、迷惑かけない人に、、、、。
ずっとずっとずっと、このままではなく、つねに何かになろうとし続けた。
それは四六時中そうだった。仕事をしていても、遅くならないように、早く早くと自分を追い立てて、絵も、こんな絵じゃダメだ、こんなアイディアじゃダメだ、と言い続けた。
家のことも、こんな汚い家じゃダメだ、こんな味付けじゃダメだ、こんな私じゃダメだと言い続けた。
心を深く深く見れば見るほど、自分がどれだけ自分を罰して責めていたぶり続けていたかが、どんどんあきらかになっていった。
言葉にならないほど責め立てることが、私を苦しめているとわかっているのに、まったくやめられない私にも気づいた。
やめようともがいてももがいてもそれをやめられない自分を、また責め立てた。
こんな自分を殺したくなった。
しかし殺しても、この苦しさは消えないことも知っていた。
そんな苦しみの中でも、日々の心の訓練のおかげですこしずつ穏やかさが見えていた。そのかすかな光にすがりながら、少しずつプロセスが動いているのを感じていた。
さんぽをしていた。
土手を見ながらある思いが湧く。
土手を見ながらある思いが湧く。
「もう、ならなくていい。ならなくていいのだ」
その言葉を心が聞いた時、はっとした。
そうだ。
なろうとするから苦しかったのだ!
だって、自分ではないものになろうとしていたから。くるしいに決まってる。
なれるはずのないものになろうとして、苦しまないわけがない。
なろうとする行為は、まるで目の前にある目に見えない何かをつかもうつかもうと、、、そう、空気をつかもうとしているかのようだった。
その何かをつかめば、「それ」になれるとおもい、必死でなろうとしていたのだ。
もうならない。
土手を見ながらそう呟いた。
じゃあ、なんになる?
なににも。
なににもならない。
目の前にあるはずのものは、自分の外にあった。そこにあるとおもっていた架空の希望や願いを求めることは、自分の外にあるものになることだったのだ。自分のものでない何かをつかんで、それを自分の中にいれようとしていたのだ。
なんだ。そんなことだったのか。。。
なににもならないでいいとすれば、いったいなにになるのだ?
いや。なるのではなく、なにものでもないものであればいい。
なにものでもないものとは?
わからない。
どんな形か、どんなものか、どんな才能かも、
いったいそこになにがあるのかわからない。
だけど、ここにいる感覚だけはある。
いる、というのか、ある、というのか。。。。
ほんとうはこことは、、、
こことは場所なのか、考えなのか、、、それさえもわからない。
自分のからだのほんの先にあるとおもっていたもの、まるで馬の前につるしたニンジンのようだけど、それを手に入れるのをやめて、内側を広げていく。
外へ外へと伸ばしていた手を、内へ内へと方向転換するのだ。外にむいていた手の平を、こっちに向けて、肋骨を広げるようなしぐさで内へ内へと入っていく。
それが何を示しているのかまったくわからない。無色透明で形もない。
それなのに、そこに無限の喜びを感じる。
「私」がどんどん大きくなっていく。
内へ内へと水をかき回すようにを手を動かしていけば行くほど、無限の水の輪っかが自分の後ろに広がっていく。
まるで今まで外へ外へと求めて、外にパワーを与えていたものを、逆向きに自分に戻しているかのようだ。戻せば戻すほど、無色透明な、我/われが広がっていく。
からだがからだの姿を消しはじめる。
ふしぎだ。
外のものになろうとしていたときは、からだが輪郭を持ってはっきりとあったのに、内に戻れば戻るほど、物質的なからだはリアル感を失っていく。
それなのに、ここにあることをはっきりと感じるのだ。
ここにあるものが中心となっている。
すべての土台をここに置けばいいのだった。
すべての源をここに置けばいいのだった。
すべてはここから始まったのだ。
いったいなにになろうとしていたのか。すべてはここにあったというのに。
心を、、、
心をどんどん広げていこう。
どこまでも、きりがないほどに。
山道を歩きながらそれをあたためた。
さっきまでの重苦しさはどこかに消えていた。
道の途中でお兄さんが何やら大事そうに草木を眺めている。
近くまで来て挨拶しようとしたら、ふいにこっちを向いた。
その時の彼の顔と言ったら。
あそこまで飛び上がってビックリする人を見たのは久しぶりだ。
「あはは。びっくりさせちゃったねえ~。ごめんよ~」
ふたりのあいだに暖かさが広がった。
その時いっしゅん山の視線を感じた。
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