2019年10月21日月曜日

自我の立ち位置から離れる




わたしたちは、
気に入らないものがあると、それを変えようとする。
わたしもそうやってきた。

これをなんとか変えて、、、
あいつをなんとか変えて、、、
未来をよくするために、今のこれをなんとか変えて、、、、と。
悪戦苦闘、七転八倒、それなりにがんばっちゃって来た。



そのやり方を変えた。

いくら外を変えようとしたって、いっとき変わったかに見えるが、もとサヤだったし、
ほとんどが、やってもやってもやってもやっても何も変わらなかったからだ。
特に人!じぇんじぇん変わらない(笑)。



今ぐらいの年になって気がついて来たのもいいのかもしれない。
だって、体力がないんだもの。無理できない。
その一種のあきらめが、功を奏したともいえる。
力つきた。


そのおかげで、じっとしてられるようになった。
あきらめたら、奇跡のコース/奇跡講座/奇跡の道が言うことに、
じっと耳を傾けられるようになった。



心の中をみていると、恐れを呼び起こす言葉に出くわす。
「ああなったらどうする?」
自我は、恐れを運んでくる。

「ああ、そうだ。ああなったらどうしよう?」
「でしょ?だから、こうしなさい」
「ああ、わかった!そうする!」
と、しっかり言いくるめられて来た。


恐れを基盤にした行動は、その先に混乱が待っている。
いっとき良さげな結果に見えるのがくせ者。
それに長い間振り回されて来た。

いくら外を変えようとしたって、変わらなかったのは、
その自我の答えを聞いているからだった。



最初にアイディアがある。
これはダメだというアイディア。
その「悪い」というアイディアは、誰が出したのか。
自我の声だ。
自我は恐れを呼び起こす天才だ。
私たちはその声にまんまとひっかかる。



コースは、自我ではなく聖霊を選べと言う。

聖霊とは、なにかわからないけれど、
私たちが本質にもどるためにあたえられたなにかであり、
そしてそれは私たち自身かもしれない。
そこんところ、私にはわからないけれど、とても心強いなにかだ。


心が何かに引っかかった時、私は聖霊に訊ねる。
「聖霊さん、これはいったいどういうことだろう。
私に何を気づかせようとしている?
私はあなたの洞察力/心眼で、この出来事を見たい。
あなただったら、これをどう見るのですか?」


出来事が起こると、わたしはこれまで、今まで通りに反応し、おそれ、
これをとりのぞくように、何かの行動を起こして来た。

だがそれに意味がないことをだんだん知りはじめた。
どう行動したって、どのみち、混乱しかないと。

Aという行動か、Bという行動か、どちらを選ぼうといい。
AもBも自我の世界。
どっちを選ぼうと大した違いはない。
AにもBにも立たないところ、聖霊の視点に立とうとする試み。


聖霊の視点に立ちたいという、ほんの少し意欲をもつ。


すると、すぐではないかもしれないが、ふとなにかがやってくる。

それは心に浮かぶアイディアであったり、
ネットでよんだ言葉であったり、
映画のワンシーンであったり。

それが自我ではなく、聖霊からのものだとわかるのは、
そこに恐れがないから。
そして今まで考えもしなかったこと。

そのとき心がちがうところにいる。


自我の立ち位置から離れる。


まさか、自我以外に別の視点があるとは思いもよらなかった。
その一瞬のちがう視点が、次々に洞察を生み、絡んだ糸がほぐれはじめる。さっきまでの恐れが跡形もなく消える。


何も変える必要はなかった。
ただ心が変わればいいだけだった。
もちろん、行動した方がいいときは、さっとするほうがいい。
出来事は、その心を変えるためのチャンスとして与えられている。
心を変えるには、けして自我では変えられない。
自我の視点では、到底考えもつかない聖霊の心眼なのだ。



非二元でよく言われている、この世は映画のスクリーンに映った映像。
そこをいくら変えようとしても無駄だといわれるのはそういうことだった。
私が小さい時、この世界がハリボテに見えたのはそういうことかもしれない。

だが、私はまだこのハリボテの世界の中にいる。


自分にとって、深くなじんだ自我の世界を、
徐々に手放せていけたらいいな。


絵/ミステリー表紙  Tart of Darkness

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