2015年12月1日火曜日

嵯峨美ビジュアルデザイン9期展


写真提供/前野節氏

先日、嵯峨美ビジュアルデザインのクラスメートたちと、大阪で卒業後初めてグループ展を開いた。

わしは東京なので作品のデータを、指先ひとつでポンと送り、向こうで出力してもらい、展示までしてもらうという、おんぶにだっこな参加だった。
勝手な参加者であるにもかかわらず、文句もいわず(ホントは言ってたかも知れんが)忙しく動いてくれたみんなに、感謝申し上げる。

LINE仲間が現地で写真や動画で実況中継をしてくれ、そこで何が起っているのかが手に取るよーにわかり、なんだか自分もそこに参加しているよーな、とーーっても楽しい展覧会であった。
おもしろい時代じゃのう~。

わしは今回、一点この展覧会のための制作させてもらった。
タイトルは「木神」と書いて、「きしん」と読ませた。

5月の展覧会以降、植物と人間が合体したようなものを制作している。10年間紙を使った制作をやめていたが、ふたたび紙を使うことによって、臨場感を立体性を感じる作品にした。

今回のグループ展では、データ作品を選んだ。どうせなら、ドドーンとでかくしたいとおもい、けっこう力を入れてつくった。

だがしかし、実際足を運んでいないので、どういう状況、どういう反応があるのかサッパリわからない。そんな中、友人が一枚の写真を送ってくれた。

同期のなつかしい友だちが、わしの作品の前でたたずんでいる写真。
この写真に、胸がぐっとあつくなったのだ。
彼女はじっと見てくれたのか、それとも一瞬見て通り過ぎたのか、それはわからない。でもわしの絵に対峙している瞬間をとらえている気がした。

その瞬間を見るために、作家は作品を外に向かって作っているのかも知れない。
それは、その作品をつくった作家との対話ではなく、一人の作家から出てきた、一個の独立した存在との対話を見る瞬間。。。




依頼仕事からはなれた、自分の内面から出て来る作品は、何一ついいわけが出来ない。恐ろしい反面、挑戦でもある。


絵:「木神/きしん」



2015年11月9日月曜日

きのう講演会にはじめて行った



きのう「ノンジュアリティの夜明け」と言う講演会に行ってきた。
やまんばがそれ系(?)の講演会に行くのは、はじめてである。

数々のあやしー本を読みあさって来たが、講演会とゆーものに、一度も行ったことがない。
ずいぶん昔、一度だけ古神道の教えの方のところに行って、「これぼったくりやな」と感じて以来、直接会いにいくよりも、ユーチューブや著書だけでじゅうぶんであるとおもっていたから。

久しぶりにのぞいてみたあるブログに書かれてあった講演会のおしらせ。
「今日からチケット販売です。今日から一週間のあいだでのふりこみなら半額です」とゆー、お得感に乗せられて、その場で申し込む。

きのうの講演会の話では、一晩で完売だったそうだ。前の方に座っていたやまんばが後ろを振り返ると、かなり広い会場の席はすべて埋まっていた。
この思想への感心がどれだけすごいかうかがえる。

4、50代の女性がほとんど。みんなこぎれいなかっこうをしたステキな女性ばかりだった。一見そんなきれいなかっこうをされて、なにを悩むことがおあり?ってなかんじなのだが、みんな心の中は葛藤で満ちあふれているのだ。そしてこの苦悩をなんとかしたいと思っている。


ノンジュアリティ、つまり、二つではないの意、日本語にして「非二元」は、こりゃまたとてつもなく、むずかしー思想だ。
観察するものと、観察されるものは、二つには分かれていない、という意味だ。
はあ~~~~?????

ここでその説明をするのは無理だ。
だがこれはとても古くて新しい思想だ。
心の時代と言われてずいぶんたつ。心の正体やこの世の道理をいぶかしがって、苦しんで、探求し続けて、もうこれ以上探求しても同じことの繰り返しだ。。。と気がついて、そしてその先に行き着くところだ。少なくともやまんばはそう感じた。
そしてそれは、小さい頃知っていたことだった。
ものすごいいきおいで、子どもの頃感じていたものに引き戻される。
「ここだったのかー!」という驚きと直感。

子どもの頃にはすでに知っていたものに、別の考えをみにまとい、そしてまたその上に、みにまとい、みにまとい、みにまとい、やがて恐怖の塊になっていった大人の自分。苦しみは、その身にまとったもののおかげだった。そしてそれを一つづつはがしていく。はがしていくうちに、隙間があらわれはじめ、その隙間からのぞきはじめたものは、子どもの頃に知っていたものだった。

なんという壮大なゲームをしているのだろう。
最初からひとつだったものを二つにわけ、その分離の苦しみから逃れるために、ありとあらゆる探求をする。そのおかげで、文化が生まれ、宗教も生まれ、ありとあらゆるものが生まれて来たのだ。

これを「愛」というのだとしたら、もう、わしらのあたまで解釈できるものではない。

またそんな話を書いてみたいと思う。

ブログの内容がドンドン変わって来たね。
ま、いっかー。

2015年11月7日土曜日

スローガンはいらない



やまんばは、自然のすがたでできる野菜作りをやりたいとおもっている。

それを自然農や自然栽培や無肥料無農薬栽培とかいう。
そして石けんなし生活もしている。

どっちも、できるだけ自然な姿を生かしたいと持っているんだな。野菜と言う植物も、ニンゲンと言う大自然の体も。

でも、それが正しいと言う気はないんだ。

理屈で考えたら、シャンプーリンスを海に流すのはよくないとか、体に悪影響を及ぼすからよくないとかいうこともできる。でもそれを言ってやめさせることとは、ちと違う気がするんだな。

野菜作りも、農薬がダメだからとか、有機肥料は体によくないから、だから自然栽培なんだっていうのとも、ちとちがうんだな。

人はどうしても自分がやっていることが正しいって思いたがる。
農薬より有機肥料。有機肥料より無肥料。だからそれが正しい!と。
やまんばも初めのうちはそう思ってた。だけどそう思えば思うほど、生きづらくなってくるし、心はかたくなっていく。

でもそれって、せっかくの自然の神秘が消えちゃう気がするんだ。
自然って、ニンゲンがおしはかれるレベルにいない気がするんだな。全く違う世界を生きている。だからどうがんばったって、ニンゲンさまのおつむじゃわかりきれないとおもうんだ。

石けんやシャンプーだってそうだ。自然を破壊するからダメだ。リンスはおかあさんの子宮にたまるからダメだ。だからそれをやめる石けんなし生活は正しい!というのもちがうとおもうんだな。

これはスローガンをかかげてやるもんではないとおもう。運動にすることでもないとおもう。運動にすれば、必ずいざこざがおこる。派閥も出来る。最初のピュアな気持ちがゆがみはじめる。それは宗教だって同じじゃないか。

根源的なことだからこそ、とても見えずらく、繊細なんだ。概念的なうたい文句を必要としないところなんだと思うんだ。

ただ一人一人がじんわりと、それがだんだん好きになっていく。
それでいいとおもうんだ。

やまんばはそれが好きだからやっている。
ただそれだけなのだ。



2015年11月5日木曜日

自分で作ったりっぱな牢獄



毎日、いろんな出来事や発見があって、書ききれないよ~ん。

言葉って難しいよね。
こう書けば、こう解釈されるだろーなーとか、ああ書けば、どんなふうに解釈されるんだろーってなことぶつぶつ考えたら、
「。。。。」ってなっちゃって、なんも書けんくなった(笑)。


と言いつつ、書いてみよう〜。

自分のあたまの中に浮かぶ考えって、自分が考えてるっておもうよね。だから自分に悪いようには言うはずがない!この考えは私の味方だ!って、鵜呑みにするよね。
でもそれってほんとだろうか。


おもしろいのは、自分のあたまの中に浮かぶ言葉に注目すると、ほとんど同じ事柄しかいってないことに気がつき、それはほぼ100%が、ネガティブで、自分を小さくすることしか言わないってこと。

あれしたい、これしたいっていう言葉をめくると、その下には「こうしなきゃ、あとでイヤな思いをする」とか「ろくな事にならない」って言う、いわば、転ばぬ先の杖みたいなことばかりを考えてるんだな。

それは、ほんとうにじぶんが「やりたい!」っておもうこととは、ま反対のものだったんだ。
ほんとうにやりたい!っておもうことって、「どうして?」ってきくと、
「わかんない。ただ、むしょうにそれがやりたいんだよな~」
っていう、ちっとも説得力のないもんなんだ。w

そころが、転ばぬ先の杖は、色々説得力がある。
もし、それをしないと、まずいことがおこる。だからそれをするのだ!ってね。それって、ものすごーい説得力あるでしょ。
そのあたまの声を聞き、
「そうだ!そうしなければいけないのだ!」
と、その言葉の通りに突き進むんだな。
んで、ドンドン深みにはまっていくんだ。

そこに解決できるもんはないんだな。。。って、気がついた。いくら転ばぬ先の杖で、対処しても、せいぜい牢獄の壁の色を塗り替えるぐらいなんだ。
「あら。ピンク色になって、明るくなったわ」って。


やまんばは自分のあたまの中に沸いてくる言葉に注目したんだ。そしてそれを「ふ~ん」と受け流しはじめた。「ああ、またいってら~」って。

だんだん、だんだん、なにかが変化する。
これまでマジに受け止めて、深刻になっていた事柄が、どうでもよくなってくる。そしてぐちゃぐちゃに絡み合っていた糸が、ゆっくりとほどけはじめ、
「あ~~~、こんなことで。。。、
あ~~~~、だから、あんなふうに苦しんでいたんだ。。。」
って、理解がおこる。

まだまだ下の方にたまっているだろうなって言うものにも気がつく。
ありとあらゆる事柄、たとえば、絵の表現に関しても、日々の生活の習慣に関しても、それはそれは、まあ、りっぱなくらい自分の牢獄に閉じ込められていることに驚く。
りっぱに、頑丈に作りあげてきた牢獄。

そこから出る鍵は、すぐここにあったんだなあ~って、おもうんだ。

絵:じぇんじぇんかんけーないけど、歴史上の人物の暴言の数々をまとめた面白い本です。その表紙を制作〜。

2015年10月11日日曜日

天狗がちょろまかした



先日、つじつまの合わないことがおこった。
と、ゆーと、なんだかとんでもないことが起こったみたいやな。
いやいやなんてーことないんやけど、でもよー考えたら、不思議やねん。

かごに入れた時は、5つだったものが、かごから出す時には、4つになっていたのだ。

は?
なんですか?それは。

どっかに落としたかと探したり、もともと入れてなかったのだと、いろんなことを確認したが、どこにもない。あたまの中で、入れた時の記憶を辿っても、確かに5つ入れた。しかしほんの1分移動しただけで、1個減っていたのだ。

これを友だちにゆーと、
「天狗だ!」とか
「いじわる好きな神さんが食ったのだ」とか、遊んでくれる(笑)。
確かにここは高尾だよ。天狗のすみかの、た・か・お。
だから天狗がちょろまかしたってのかい!セコい天狗やのお~。


私たちは、この世はつじつまが合う世界だと信じて疑わない。
1+1=2な世界なのだ。
だがほんとだろうか。数学も突き詰めていけば、1+1=2ではないらしい。
わしは方程式が好きだった。なぜかとゆーと、ひとつの法則で解くと、完全に答えが1つ出てくるからだ。
それって、ある意味、安心感がない?
はあ~っ、解けた!すっきり~っ!って。

けど、この世はそーはいかのしおからだっちょのふんどし。
つじつまのあわないことだらけ。

だからだろうか。人々はひたすら探求する。完全なるしあわせを求めて、完全なる安心感を求めて、法則を探す。
あそこの法則がすごい!と聞けば、行ってその先生にお伺いを立て、あの農法さえ使えば、完璧だ!とあちこちの農法にふんそーする。
あれさえ使えば、完璧に儲かる。あの方法さえ身につければ、完璧な作品しか生み出さない。あの宗教の教えに入れば、完璧なしあわせが手に入る。。。。

だが実際は、そんなもんどこにもない。探求し続けて、明け暮れて、見つけられなくて、あっちの法則、こっちの法則へと転々と移動するのがオチじゃなかったか。
事実、やまんばだって、自然農、自然農法、たんじゅん農法、自然栽培、。。。と転々として来た。どっかにバッチリあう農法があるはずだ!と。でも結局、外になんかみつからなかった。



んで、最初の話。
このじじつに、やまんばはリンゴから手をはなせばリンゴは地面に向かって落ちる、とゆーほどの、あたり前の法則の、崩壊の断片を見た気がしたんだ。
これは、なにかを教えてないか。。。?と。

リンゴはほんとは手をはなしても地面に落ちないのかも知れない。5はときどき、4になったりするのかもしれない。
もし1+1が、数字上では2なのに、実際にリンゴを数えてみたら、3個になってたり、8個になってたりしてたら、この世の数学は変わっているだろう。

そうなったら、とてもじゃないが、人は安心できない。
8時までに出社しなければいけないのに、時間が逆行してたらどーなる!?もしくは、8時の次が、11時だったらどーする!?

いや、そもそもこの世がそんな状態だったら、今の数学も時計もないだろう。そしてそもそも、そこに安心感などもたないだろう。
「時間にあわせる?なにそれ?」
「お金?ああ、減ったり、増えたりするもんよ」

絶対的な法則がある!とおもっているのは、
「絶対的な法則があってくれなくちゃ困る!」
とゆー、心理状態が生み出した、「おとぎばなし」だったりしてね(笑)。


ちゃんちゃん。

(って、どこに落としたんだよ!)

絵」「大天狗」オリジナル


2015年10月6日火曜日

やまんばの白髪





54歳のやまんばは、口紅はおろか、化粧品一個ももってない。石けん使わないので、顔がパサつかないから、化粧水も、クリームももってない。
石けんなし生活の髪は染めてもない。まるっきしの、天然そのまんま。

このごろ友だちが、髪を染めるのが面倒になったといっていた。染めるって、けっこう面倒なようだ。

先日もしばらく会っていなかった同い年の女性が、あたまが真っ白になっているのを見てビックリした。彼女、あんなに白髪があったんだ。ずっと染めていたのだ。しらなかったなあ~。
その日はどこかのお葬式の帰りだったようだったが、喪服姿に8割白髪。すっぴんに、うっすら紅を引いただけの彼女は、どこか色っぽかった。

人は「べき」にずっととらわれて生きているんだけど、特に年がいってくると、女の人はけっこう不自由だなあ~とおもう。

化粧はするべき。
髪は染めるべき。
料理はするべき。
やせるべき。
ジムには行くべき。
健康管理はするべき。
体にいいものを食べるべき。
習い事はするべき。
親の面倒は見るべき。
子どもの面倒は見るべき。
家の掃除はするべき。
洗濯はするべき。
電気はこまめに消すべき。
ゴミはできるだけ少なくするべき。
ご近所さんとは波風立てないようにするべき。
みんなが見て「正しい」ことをするべき。

近所のおばちゃんとはなしをしても、あれをしなきゃ、これをしなきゃ、と言う話でもりあがる。美容院行かなきゃ、病院行かなきゃ、ジムに行かなきゃ、孫の面倒見なきゃ。。。

なんか、強迫観念のように、やまんばに訴えてくる。
まるで、「私、これやっているからいいでしょ?オッケーでしょ?大丈夫でしょ?」って、同意を求められているみたいだ。

もちろん、いいよ。おっけーだよ。
でもねえ。いつまでも人に同意を求めてるってことは、
ずーーーーっと、人の目を気にして生き続けることになるよ。
ずーーーーっと、ありもしない架空のモノサシで、自分をはかり続け、心が落ち着かないまんまなのだよ。

つまり、自分で自分が認められないのだ。自分がこれでいい、と心底思えないからだ。だからつねに外のなにかと比べてオッケーか、オッケーじゃないかをはかり続けるんだ。

それほど、自分で自分を認めることは、相当難しい。
やまんばだって、ここに来てやっとそのことを、はっきりわかり始めたところなんだもん。
とてもじゃないが、
「あら、勝手に出来ちゃった」
なんて自然にいかないんやろな。(笑)


絵:「水仙ちゃん」:越前茶ペットボトルのキャラクター

2015年10月3日土曜日

苦しみの中にくつろいでみる




わたしたちは、「ねばならない」というものにとこかこまれている。

痛いのは取り除かなければならない。
苦しみは取り除かなければならない。

人は苦しいと、それに抵抗する。
人は痛いと、それに抵抗する。

でもそれに抵抗すればするほど、痛みは増す。
苦しみに抵抗すればするほど、苦しみは増す。

なぜ抵抗するのか。
それは、痛いことは悪いことだとしているから。
苦しいことは悪いことだとしているから。

確かに痛いことは、「死」と言う恐怖に結びついているから、カラダは自然と守ろうとする。それは大事なことだ。痛みから来る恐怖がないと、人はアクセル踏みっぱなしで、ドンドン死んでいくだろう。

だが私たちのほとんどは、その瞬間の肉体的恐怖ではなく、過去や未来を想定することによる観念的な恐怖のなかにいることがほとんどではないだろうか。


やまんばは、痛みを感じるとき、痛みの中にくつろいでみる。
この痛みはどんな痛み?
おお、こんなかんじか。おお~、ググ~っとねじれる感じか。
おおおお~~~っ。。。

痛みは抵抗するよりも、受け入れる方が、和らぐのを知る。
そしていつのまにか消えていく。
肉体の中にひそむ叡智を感じる。なぜ痛みを与えているのか。
それさえも、素晴らしい教えなのではないだろうか。


やまんばは苦しさを感じるとき、苦しさの中にくつろいでみる。
この苦しさはどんな苦しさ?
。。。胸になにかがある。
どんなものが?
そう、、ねえ。。しいて言えば、ありとあらゆる色の、いろんなカタチの考えが、バラバラに飛び交っている感じ。。。。
それはどんな色をしている?
それはどんな柄をしている?
そうねえ。そうねえ。これは市松模様で、これは、ゴブラン織りみたいな。。。

そんなふうに感じるものを実況中継しているあいだに、その苦しさは、いつのまにかべつのものを立ち上げてくる。

ああ、こんな観念があるから苦しかったんだ。。。
ああ、そんなものは苦しさを生むだけで、必要なかったものだったんだ。。。

そんな気づきにおどろかされる。

苦しさに抵抗するのではなく、苦しさを素直に味わってみる。
ただそれだけで、なにかがほどけていく。


絵:「witch」オリジナル
美しい魔女を描いてみたかったんだあ〜。